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旧東海道10 (関から京三条大橋)-4 <水口宿(みなくちしゅく)>

<水口宿(みなくちしゅく)から石部宿へ>(13.7km)

 

(前)<土山宿(つちやましゅく)から水口宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=191

 

水口宿は、50番目の宿場に指定されて発展した。特産品は、藤細工、煙管、かんぴょうなど。
宿場の歴史は古く、室町時代に伊勢参宮の宿村として設けられたのが初めと言われている。その後1585(天正13年)豊臣秀吉が家臣の中村一氏に水口岡山城を築城させたことにより、宿場としての町割が整備された。
天保14年(1843)当時の宿内の距離は東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒という規模でした。

 

広重  女性らがユウガオの果実を細長く削って干瓢づくりに余念がない様子を描いています。

 

 

山川橋----東海道標 水口宿----東見付(東入口)跡----本陣跡----高札場跡----問屋場跡----忍者最中----水口石----百間長屋跡----五十鈴神社----林口の一里塚跡

 

 

国道307号を横断して山川に架かる山川橋を渡ると右側に小公園があり、東海道標 水口宿が立っている。
そこからほんの100m程に「冠木門」が置かれています。ここが水口宿の東見付(東入口)跡です。
ここから水口宿になります
東見付を過ぎると道筋はかなり狭くなり、その先の歩道橋のある交差点を渡り、右へ大きくカーブする。三叉路の左に本陣跡の案内板がたっている。次の三叉路には高札場跡があった。

 

冠木門 東見付(東入口)跡

 

案内には本陣は鵜飼伝左ヱ門が営んでいたこと、大きさは普通の家の三倍の大きさだったこと、そして明治2年に明治天皇が宿泊されたのを最後に本陣の役割を終え、その後撤去されたことが記されています。

 

高札場跡の三叉路は左へ行き、次の三叉路は右に行くと問屋場跡の標石がおかれている。その前に和菓子屋があり、「忍者最中」が売られていた。ここ水口は甲賀忍者の里です

本町通りをまっすぐ進むと、近江鉄道(略して「近鉄」)の踏切があり、左に水口石橋駅のホームが見える

 

宿内の光景

 

忍者最中 が売られている「御菓子処一味屋」

 

踏切を渡って200m行った信用金庫の前の丁字路を右に曲がり、さらに100m先で左に曲がり、心光寺の前を通り300m先で左に曲がり、また100m先のクリーニング店前の分岐を右に曲がる。城下町特有の鉤型の道です。

この最後の曲がり角に水口石がある。

その先に百間長屋跡の案内板がある。この辺りは水口城の城下町で下級武士が百間(180m)の棟割長屋に住んでいたとのことです。

 

水口石

東海道に面した小阪町に伝えられる大石で、「力石とも呼ばれ江戸時代の浮世絵師国芳が錦絵の題材にもしている」と石の前の説明書きにある。 

 

百間長屋 

 

突き当り丁字路の右に五十鈴神社があり、その角に少し土が盛られ林口の一里塚跡と書かれた標石があった。

ここを左に行くと、すぐに信号交差点に出る。この信号交差点あたりに東海道の西側入口の「西見付」があったと思われますが表示はありません。

 

そしてこの場所で水口宿は終わります。

 

林口の一里塚跡

日本橋から113番目(約444km)、京三条大橋からは12番目(約49km地点)の一里塚です。

 

 

水口宿西見附跡----美冨久酒造----米新楼----火の見櫓----東海道の案内標木ー----泉の一里塚跡----横田の渡しの跡

 

 

水口宿西見附跡を後にして石部宿へと向かう。

 

三叉路辺りに美冨久酒造がある。このあたりは江戸時代は北脇縄手と呼ばれていたそうです。

当時、伊勢大路とも呼ばれていた道は曲がりくねっていたのですが、江戸時代に東海道を整備する時に見通しが効くようにほぼ一直線の道筋にして、道の両脇の土手に松並木を植えました。この辺りから東海道十三渡しの一つで野洲川(横田川)の横田の渡しまでの約3.5キロの道筋は畑の中を貫く一本道のことです。

 

真っ直ぐな道を行くと右側に、米新楼という趣のある料亭がありました。調べてみましたがその状況は、分かりませんでした。

 

美冨久酒造  大正6年(1917)創業です。「山廃仕込」という酒造の伝統技法を受け継ぐ醸造元です

 

米新楼という趣のある料亭

 

真っ直ぐ進むと柏木公民館があり、その公民館前の広場にが一つ置かれています。その櫓には梯子が付けられ、丁髷姿の一人の男が梯子を登っています。櫓の上には半鐘らしきものが吊り下げられていた。火の見櫓かもしれません。

 

 

松並木が続く中を行くと三叉路の左手に橋が見えて来る。橋の手前に「東海道の案内標木」があるので、ここで左手に進み、泉川に架かる「舞込橋」渡ると、右側に「日吉神社御旅所」の石柱があり、その先に土が盛られた「泉の一里塚跡」が置かれています

 

東海道の案内標木 水口宿 横田渡 と書かれています。

 

泉の一里塚跡 (江戸より114番目)

 

その先で小さな川を渡り、少し左にカーブをすると冠木門と巨大な常夜燈が置かれている。常夜燈の向こう側には野洲川が流れ、街道時代には船による渡しが行われていた「横田の渡しの跡」です。

 

「横田の渡し」は「東海道十三渡し」のひとつで、常夜燈は文政五年(1822)に建立されている。常夜燈は万人講中のもので、普段は土橋、水かさが増した場合は舟渡しを行っていた。

 

 

横田渡跡の常夜燈

高さ10.5m、笠石は2.7m四方、囲いは7mの玉垣で築かれているもので、対岸からも、渡し舟の上からもこの常夜燈は大きく目立つ存在だったのでしょう

 

 

横田橋----微妙大師萬里小路藤房卿御墓所の石柱----東海道の木標----大沙トンネル----弘法杉----「夏見の里」の解説板----盛福寺----夏見一里塚跡----由良谷川トンネル----北島酒造

 

 

現在は、野洲川(横田川)を渡る渡しが無いので1劼曚媛捨の横田橋を渡ることになる。

このために国道1号に合流してから横田橋を渡ることになる。橋を渡りきると左に階段があるのでそこを下る。この正面がJR草津線の三雲駅です。

駅には行かずに右に曲がるが、この角に「微妙大師萬里小路藤房卿御墓所」、左側に「妙感寺従是二十二丁」と書かれた石柱が置かれていた。

道なりに進み、草津線の踏切を渡ると右側に東海道の木標が置かれている。

 

萬里小路藤房は鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱出に従ったが、 その後、出家し妙心寺の二代目住職になったという人物です。ここから南西22丁にある妙感寺は藤房が晩年に過ごしたところです。

 

 

旧街道を進んで行くと、大沙トンネルにさしかかります。なんとこのトンネルの上には川が流れています。川の名前は「大沙川」です。

 

大沙川は上流から運ばれた土砂が堆積して川底が上がり、川が家や田畑よりも高くなったところを川の氾濫を防ぐために土手を高く築き直した結果、川がこのように高いところを流れるようになったとの事です。このような川を天井川といい滋賀県東部に多く見られます。

 

トンネルを抜けると左側の囲いの中に「弘法大師錫杖跡」の碑が置かれてた。そして頭上の大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年の杉がある。この大杉は弘法杉、または二本杉と呼ばれているそうです。

一説によれば弘法大師(空海)が、この場所で昼食をとる際、杉の枝を折って箸の代わりとして使い、食後、2本の枝を土に突きたてた後、箸(木の枝〉が成長して二本の杉の大木になったと伝わっています。

 

大沙トンネル このトンネルの上に川が流れています。

 

左端に見える石柱が、「弘法大師錫杖跡」でその左上に「弘法杉」があります。

 

トンネルを抜けると、道の左手の小高い山の中腹に気になる巨大な岩が遠目でも見ることができます。

これは、「八丈岩」と言われています。八丈とは一丈は3.08mですから、およそ24mの高さの大岩です。

 

この山の中腹に戦国時代の城「三雲城」があったそうです。この城は長享2年(1488)に安土の観音寺城主であった佐々木六角高頼が逃げ込みのための本城として、三雲典膳に命じて築かせたものでしたが、元亀元年(1570)に信長の家臣の佐久間信盛の攻撃により、落城そして廃城となってしまいました。城跡に残された巨大な岩は「見張り台」として使われていたと言われ、その大きさから「八丈岩」と名付けられています。

 

 

三雲城概略図

 

300m程先の交差点の手前に「夏見の里」の解説板が立っている。

この辺りは、「立場」が置かれ、名物の心太(ところてん)や名酒桜川が茶碗酒として計り売りされている店が並んでいたそうです。

左にある盛福寺の前を過ぎて暫らくすると日本橋から115番目の一里塚である夏見一里塚跡の案内板が立っている。(案内板だけ)

一里塚の先に、またトンネルがあります。これも大沙トンネルと同じ、天井川の由良谷川トンネルです。

トンネルから750m程行くと左側に文化2年創業という老舗の「北島酒造」があります。北島酒造では店内に湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれているそうです。

 

北島酒造

 

 

家棟川隧道扁額----愍念寺、光林寺、養林寺----落合川

 

 

北島酒造の先には、家棟川(やのむねかわ)があり、そこに家棟川隧道扁額の説明板が立っていた。

それによると、かっては家棟川も天井川でこの下にトンネルが掘られていたそうです。

この先落合川まで街道から少し奥まったところにお寺が沢山ありました。右手に愍念寺、光林寺、養林寺、左手には八島寺などです。

 

この先の落合川を渡るといよいよ石部宿になります。

 

 

 

(つづく)<石部宿(いしべしゅく)から草津宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=194

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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