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旧東海道10 (関から京三条大橋)−3 <土山宿(つちやましゅく)>

<土山宿(つちやましゅく)から水口宿へ>(11.8km)

 

(前)<坂下宿(さかのしたしゅく)から土山宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=190

 

土山宿は、東海道の49番目の宿駅で、上方へ向かう旅人が、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場である。
東の田村川橋から西の松尾川(野州川)までの22町55間(約2.5km)の細長い宿であった。
当時は、小田原宿や三島宿と同様に賑わっていた。現在も本陣や旅籠の並ぶ町並みはきれいに整備されて残され、宿場町の面影を残している。



広重  春の雨
雨の中、笠を目深にかぶり、合羽を羽織った大名行列の一行が 背を丸めながら、増水した田村川の板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いています。

海道橋(田村川橋)----田村神社----道の駅・あいの土山----東海道道標----地蔵堂----扇屋伝承文化館----土山一里塚跡----旅籠車屋跡----来見橋----白川神社----旅籠群----二階屋本陣跡----問屋場跡----土山宿本陣跡----土山宿大黒屋本陣跡碑----追分道標

 



田村川橋は、江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋であったが、今は復元されて海道橋となっている。

この橋を渡り、田村神社の境内に入ると右側に田村神社の二の鳥居常夜燈狛犬が並んで立っている。側には高札場跡の石柱もたっている。
ここを直角に曲がり国道1号にむかいます。歩道橋を渡り渡ると「道の駅・あいの土山」です。

チョット一休みします。



海道橋を渡ってすぐの鳥居


田村神社  国道1号に面して立っている鳥居
祭神は坂上田村麻呂。平安時代初期の建立。社殿は鈴鹿峠から移されたものである。 田村麻呂の、鈴鹿峠の鬼退治の伝説にまつわる「厄よけの神」としても有名。この鬼退治が2月18日だったことにちなみ、毎年2月17,18,19日に厄除祭が催されている。

旧東海道は、「道の駅・あいの土山」の建物の裏手に回り込むような道筋となり、東海道道標地蔵堂があります。
真っ直ぐ進むと、右側に商家然とした赤のれんの掛っている建物が見えてきた。扇や櫛を扱っていた「扇屋」です。現在は扇屋伝承文化館の名で土山を訪れる観光客のための休憩施設として利用されています

その先の民家の前に、日本橋から110番目の「土山一里塚跡」の標柱がある。 塚の規模はおよそ高さ2.5m、円周12mの大きさであった と伝えられています。



地蔵堂


扇屋伝承文化館
館内では地元の工芸品の展示や販売が行われているそうです。

「土山一里塚跡」を過ぎると、街道の左側に「旅籠 車屋跡」の石柱、そしてその先には立派な建物のお屋敷があった。

さらに進み小さな川に架かっている来見橋(くるみはし)を渡るとすぐ左に南土山の鎮守として崇められている白川神社の大きな鳥居がある。


この神社は、牛頭天王社又は祇園社とも呼ばれ、毎年7月の第3日曜日に「土山祇園祭花笠神事」が執り行われています。この神事は江戸時代の承応3年(1654)から続いているもので、南土山町14地区で奉納された花笠から花を奪い合う「花奪い行事」です



今でも残されているりっぱな屋敷


来見橋

白川神社から道は左にカーブして、道の両側に旅籠の石柱が沢山置かれています。柏屋大工屋釣瓶平野屋、向かいには井筒屋などがつづく。
中でも井筒屋は、森白仙終焉の地 と、石柱に彫られていた。

直ぐ先に二階屋本陣跡の石柱。またその先に問屋場、成道学校跡と同じ石柱に彫られていた。これは、明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。ということだそうです。

右手に立派な家が現れます。これは、土山宿本陣跡の建物でした。



森白仙終焉の地 井筒屋跡
森白仙は、文豪森鴎外の祖父で、文久元年(1861)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死しました。森家は岩見国津和野藩亀井家の典医として代々仕える家柄で、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師でした。


問屋場、成道学校跡の石柱


土山宿本陣跡
屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。


土山宿本陣跡からほんの150m程の所に、「土山宿大黒屋本陣跡碑」「土山宿問屋場跡碑」と少し離れた場所に「高札場跡碑」が置かれていた。
大黒屋は、旅籠屋として繁盛し土山本陣の補佐宿となった。規模は、土山宿本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったようです。

これにより土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によると、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏(忍者?)と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたそうだ。

道はここで大きく右へと曲がってやがて国道1号にぶつかる。
国道を横断すると、道の左端に二基の道標が立っていた。「東海道」と「御代参街道(ごだいさんかいどう)」との追分です。

この道標の右に進む小路が旧御代参街道で、左斜めに進む道が旧東海道です。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還です。

江戸時代の東海道は御代参街道(ごだいさん)の道標の所で、進路を北西に変えて進み、野洲川を舟渡しで渡っていたのですが、現在は渡しも橋もありません。

そこで現在の土山宿はここまでになります


土山宿大黒屋本陣跡碑と土山宿問屋場跡碑


追分道標 小さな方の道標には「右 北国たか街道 ひの八まんみち 」と刻まれています。
北国たか街道(御代参街道)とは、ここから多賀大社へ行く近道で、またそれを経由し北国街道や中山道にも通じ、多賀大社にお参りする人々や近江商人などが往行した道の事を言っています。


歌声橋----滝樹神社入口----地安禅寺----垂水頓宮御殿跡----諏訪神社----長泉寺----大野市場一里塚跡----東海道反野畷----長園寺----旅籠丸屋跡----煉瓦作りの煙突の家----若王寺----旅籠東屋跡

 

 



国道を横断して、一旦北西の道に入るが、150m程で急カーブを国道1号へ戻りますが、このまま先に行くのが本来の旧東海道だった道です。

戻ってすぐ先を左の細い道に入り、道なりに歩くと車道の白川橋の南にある歌声橋野洲川を渡る。その先で右手からくる道と合流する地点にさしかかるが、この右からくる道筋がかつての東海道なのです

その先に「滝樹(たぎ)神社入口 従是四丁(約450m)」という表示が置かれている。其の200m先にも滝樹神社の鳥居があった。

さらに200m程いくと右側に地安禅寺(ちあんぜんじ)の楼門がある。



滝樹神社の鳥居


地安禅寺の楼門
地安寺には、御水尾法皇の御影御位牌が安置されています。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16才の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、34才で上皇になられた。


300m程先の左側の民家の一角に垂水頓宮御殿跡と書かれた石柱が立っていた。
またその先の左に諏訪神社があり、右側に延命地蔵尊が祀られている長泉寺がある。
さらに200mほど行くと道の右側の角に江戸から111番目の「一里塚跡」の石柱が立っていた。これは、大野市場一里塚跡(おおのいちばいちりつかあと)です。
その先の川は、大日川(堀切川)で、これを渡ると左に東海道反野畷の石柱があった。



垂水頓宮御殿跡
説明板には次のように書かれています。
伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。 土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。


大野市場一里塚跡
土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先であったが現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模はおよそ高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。


東海道反野畷 大日川(堀切川)掘割碑
大日川は江戸時代には市場村と大野村の境をなす川でした。頓宮山を源流とした川は平坦部で流れが広がり、いったん大雨が降ると市場村と大野村の洪水被害が甚大だったといいます。大野村はその対策として、江戸時代の元禄12年(1699)に排水路を掘割し、野洲川に流すことを計画し、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し元禄16年(1703)に完成しました。

左に野洲川を見ながら歩くと、右に大野小学校があり、その先に民家の前に旅籠松坂屋の石柱があり、その隣に「長園寺」の石柱が立っている、その先にも旅籠丸屋跡の石柱が置かれていた。この辺りは、土山宿水口宿の中間にあたるので、間宿になっていたのでしょう。

この辺りで屋根の上に「煙り出し」(煙突))のある独特の建物が数件みられる。左側の煉瓦作りの煙突の家は造り酒屋で、右側の民家の脇に「明治天皇御聖蹟碑」がある。

この先は国道1号線を横断して、浄土宗若王寺の石柱前を右手に分岐する旧街道の細い道筋に入ると、旧徳原村の小さな集落が始まります。
集落を進んで行くと道筋の左側の藁葺屋根の家の前に旅籠 東屋跡の石柱が置かれていた。街道で藁葺屋根の家は初めて見たような気がします。



煉瓦作りの煙突の家


藁葺屋根の 旅籠 東屋跡

 

 

旅籠東屋跡----大野西の信号----東海道分間延絵図(今郷)----今在家一里塚跡----(浄土寺)----小里村の高札場跡----宝善寺----岩神社----永福寺---八幡神社

 

 

茅葺屋根の旅籠を後にして国道1号と合流する大野西の信号を横断して左側の県道に入り、稲川を渡ると甲賀市水口町今郷になる。

 

大野西交差点

 

直ぐに右の細い道に入り、緩やかな坂を上って行くと右手に「東海道分間延絵図」を張った説明板がある。現在の今郷の様子が書かれている。
坂が平坦になったころ浄土寺の手前に「今在家(いまざいけ)一里塚跡」の石柱が置かれていた。
本来の旧東海道は真っ直ぐに行くそうだが、浄土寺の山門前を通り旧東海道に戻った。合流点にある三叉路の角に小里村の高札場跡があった。

 

東海道分間延絵図(今郷)

 

今在家一里塚跡

日本橋から112番目(約440km)、京三条大橋からは13番目(約54km地点)の一里塚跡です。

 

三叉路を少し行き右手に分岐する狭い道筋に入って行くと今郷集落になる。宝善寺の前を通り過ぎ県道(旧1号)に再び合流する。そこにあるのが岩神社です。
そこからまたまた右の道に入って行く。しばらくすると街道から少し奥まったところに山門を構える「永福寺」にさしかかる。この辺りが旧新城村の中心だったようだ。

 

宝善寺

 

永福寺

阿弥陀如来を中心とする観音勢至地蔵の四尊を描く来迎図を寺宝に持っているそうで、この来迎図は昭和59年に水口町(現甲賀市)の文化財に指定されました。

 

永福寺の200m程先の右側に「八幡神社」の石柱があり、観音堂と絵馬についての説明板が立っている。
この神社の観音堂には、馬頭観音が祀られていて、この馬頭観音は元々は最澄が創建した「天水寺」の本尊だったそうです。


水口宿の旅籠や宿役人等が奉納したという2百余りの小絵馬も残っているそうです。

 

この先の山川橋を渡ると、次の宿場水口宿になります

 


 

(つづく)<水口宿(みなくちしゅく)から石部宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=193

 

 

 

 

 

 


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