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旧東海道10 (関から京三条大橋)-1 <関宿(せきしゅく)>


2019年3月21日(木曜日)から3月23日(土曜日) 

旧東海道歩きの10回目で、JR関駅から京三条大橋まで 関宿、坂下宿、土山宿、水口宿、石部宿、草津宿、大津宿を歩きついに旧東海道のゴール京三条大橋に着きました。

関宿から草津宿

距離 55.3km 高低差 290m  14時間48分

草津宿から京三条大橋

距離 28.9km 高低差 132m  7時間49分

 


<関宿から坂下宿へ>(5.3km)

 

(前)<亀山宿(かめやましゅく)から関宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=188

関宿は47番目の宿場で、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄した宿場です。
の名の由来は、古代三関の一つ「鈴鹿の関」が置かれていた事によるものだそうです。
宿は江戸方より木崎新所の三町からなり、関三町(せきのさんちょう)と称されました。
関の特産は火縄です。新所を中心に数十軒の火縄屋があったそうです。



広重 関宿の景


東追分(伊勢神宮の大鳥居・関一里塚跡の石碑)----御馳走場----問屋場跡---川北本陣跡----伊藤本陣跡----福蔵寺----地蔵院----関西山観音院----西の追分

 



関宿の江戸口になる東追分には伊勢神宮の大鳥居がある。この大鳥居は東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に伊勢神宮に向かって遙拝するためのものです。
鳥居の左側の小高いところに関一里塚跡の石碑がひそかに建っています。

関宿はこの鳥居から西の追分まで、東西に1800mの帯状に伸びていた宿場町で、東海道と伊勢詣での旅人が向う伊勢別街道との追分(分岐点)でもありました。



右に伊勢神宮の大鳥居・左に常夜燈・中央奥に小さく見える石柱が一里塚跡です。


東追分から見た関宿の街並み 
宿内の街道には電信柱がまったくなく、今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観です。

真っ直ぐな道をすすんでゆくと右手コーナーの小さな広場に御馳走場と彫られた石柱ががある。
これは、関所に出入りする大名行列の一行を、宿役人が衣服を改めて出迎えたり見送ってたりした場所である。また大名行列もここから毛槍をふりたてて本陣まで行列したとの事。関宿には4箇所の御馳走場があったそうです。
御馳走場の前には「開雲楼」と「松鶴楼」という関を代表する芸妓置屋の建物が残されています。

中町に入ると問屋場跡本陣跡も続き、この宿の中心であることがわかります。



川北本陣跡(かわきたほんじんあと)
江戸時代初期から関で本陣をつとめていた川北家の跡で、当時をしのぶ碑が建っている。川北本陣の門は、延命寺の山門として移設されている


伊藤本陣
伊藤本陣は川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。

郵便局の先の路地を右に曲がったところに福蔵寺がある。ここは、織田信長の3男の織田信孝の菩提寺であり、仇討ちで有名な関の小萬の墓がある。

この先が広場になっていて奥に立派なお堂が建っている。これは、地蔵院で、「関地蔵」が祀られている。地蔵院本堂は、元禄13年(1700)、将軍綱吉が母、桂昌院のため建立したものです。



福蔵寺   この寺の裏門は、荻屋脇本陣から移築したものです。


地蔵院
天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる、日本最古の地蔵菩薩。 境内の本堂、愛染道、鐘楼は国指定重要文化財。

東海道は地蔵院のところで緩やかにカーブしてここから新所町となる。400m程行くと、右手に関西山観音院がある。ここは関宿の守り仏であり、後には西国三十三ヶ所の霊場となった。

観音院をすぎると、まもなく国道1号と合流するが、その手前の三角広場に西の追分があります。
西の追分は東海道大和・伊賀街道との分岐点です。京都方面へは、鈴鹿峠を越えて19里半(78辧棒茲坂下宿に向かいます。また、大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良に至ります。



観音院
説明板によると「古くは関西山福聚寺といい城山の西方にありましたが、戦国末期に焼失し、寛文年間(1661〜1672)に現在地に移転しお堂を建て、関西山観音院と名称を変えました」とあった。


西の追分 石柱には「ひだりハいかやまとみち」と書かれている


現在の追分標識です。(新所交差点) 甲賀と伊賀の分岐です。


新所交差点---転び石----市瀬橋----西願寺----筆捨山の案内板----弁天橋

 



西の追分を出てすぐそこにある新所交差点の先で国道1号線に合流する。大和街道は南に、旧東海道は一号線をまっすぐに進む。 国道沿いに進むと駐車場内に転び石(ころびいし)の木柱があった。そこには、

直径2mの石で「弁慶ころがし」とも言われ、山の上から転げ落ちてきて、夜な夜な「山にもどりたい」と、うなり声を出して人びとを恐れさせたが、弘法大師の供養によっておとなしくなったとの伝説が残っています」。と書いてあった。

やがて1号線と分かれて鈴鹿川沿いに右の細い道に進み、鈴鹿川にかかる市瀬橋を渡り市瀬集落へ入る。道の両側には古い家が並んでいます。
集落は中程で国道1号に分断される。その先に、西願寺(さいがんじ)がある。



市瀬橋の下を流れる鈴鹿川


西願寺
浄土宗本願寺派の寺で、山門前には常夜燈が建っている。

このさきで再び国道1号に合流し、国道を800mほど進むと街道は左へとカーブしていきます。その正面に三角おにぎりのような姿をした山が見えてきます。これが有名な「筆捨山(ふですてやま)」です。そこに案内板が置かれていました。


正面に見えるのが筆捨山です
案内板には、東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する、標高289mの山である。
もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため描き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。
浮世絵での坂下宿は、ほとんどがこの筆捨山を描いている。
と書かれていました。


国道を行き鈴鹿川に架かる弁天橋を渡って先を右にまがり沓掛に向かって行く。

超泉寺----鈴鹿馬子唄会館----坂下尋常高等小学校の校舎----河原谷橋

 



沓掛の集落に入ると右側に超泉寺があり、旅人が草鞋を掛けて旅の安全を祈願した寺かもしれません。
このあたりから穏やかな上り坂になり500m程行くと道は三叉路になり、東海道は右側の狭い急な坂を登っていきます。そこに鈴鹿馬子唄会館がある。ここには鈴鹿峠を発祥の地とする鈴鹿馬子唄についての多数の資料が展示されているそうです。

右側には昔懐かしい造りの建物があり、思わず中をのぞきたくなりました。この建物は昭和13年(1938)坂下尋常高等小学校の校舎として建てられたもので、昭和54年(1979)に廃校となり、現在は年間を通じて鈴鹿峠自然の家と名付けられ、宿泊研修施設として活用されています。

1kmほど歩くと小さな川に架かる河原谷橋にさしかかります。この川が沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると48番目の坂下宿(さかのしたしゅく)に入ります。



超泉寺


坂下尋常高等小学校(鈴鹿峠自然の家)



(つづく)<坂下宿(さかのしたしゅく)から土山宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=190


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