<< 旧東海道8(知立から四日市)-3 <宮宿(みやしゅく)(熱田宿)> | main | 旧東海道9 (四日市から関)-1 <四日市宿> >>

旧東海道8(知立から四日市)-4 <桑名宿(くわなしゅく)>

<桑名宿(くわなしゅく)から四日市宿へ>(12.6km)

 

(前)<宮宿(みやしゅく)(熱田宿)〜桑名宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=182

 

 

桑名宿は、42番目の宿場で、旅籠では宮宿に次いで2番目に多い宿場でした。

長良川の河口部にあり、南は伊勢湾に面しているため、中世以来港湾都市として発展した。美濃の幕領からの年貢米をはじめ、移出物資の多くは桑名湊から江戸へと送られた。

桑名の町は、江戸時代1701(元禄14)年、1719(享保4)年の2度の大火に見舞われて城下町ほ殆ど消失してしまった。さらに明治維新の戦いで城は破壊され、太平洋戦争で戦災にあい、1959(昭和34)年の伊勢湾台風で大被害を蒙ったりして、昔日の面影は全くなくなしまった。
規模は、本陣:2、脇本陣:4、旅籠:120

 

 

 

 

七里の渡し場跡----春日神社----光徳寺----泡州崎八幡社----天武天皇社----矢田立場----了順寺----江崎松原跡案内板----城南神社----伊勢両宮常夜燈

 

 

江戸時代は海路で、宮の渡しから、ここ桑名の七里の渡し場に到着する。ここにある大鳥居は、ここから伊勢国であり、旅人にとってはお伊勢参りの出発点という意味もあり、伊勢一の鳥居とも称している。

 

七里の渡し場跡を後にして旧東海道を南へ歩くと、住宅の裏は堀で何本もの橋がかかっている。

 

南下していくと大きな春日神社の青銅の鳥居が立っている。「勢州桑名に過ぎたるものは 青銅鳥居に二朱女郎」とうたわれた大鳥居です。左足元にしるべ石がある。これはは明治18年に建てられたもので、当時の人を探すための伝言板であった。正面「志るべい志」、左面「たずぬるかた」、右面「おしゆるかた」と刻まれている。


  

桑名宿と宮宿(現名古屋市熱田区)の間は江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28キロ)あることから、七里の渡と呼ばれた。七里の渡は、ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が天明年間(1781〜1789)に建てられた。

 

 

 

 

春日神社の青銅の鳥居しるべ石

青銅鳥居は高さ7.6mの大きなもので、寛文7年(1667)に第1次久松松平家の5代藩主「久松松平定重」が250両もの大金を投じて、辻内善右衛門に命じ建立したものです。

 

この辺りの左手には、桑名城の城壁の一部が見られる。
さらに南下すると道は突き当り、左側にあるのが「南大手橋」です。東海道はここで右折します。
京町交差点を渡り、最初の四つ角の右側に「毘沙門堂」があります。毘沙門天堂の角を左折して「よつや通り」へと進んでいきます。この辺りは寺町と言われるほど寺が密集しています。

 

複雑に道は曲がりますが案内板で間違うことはないでしょう。

 

この堀は桑名城を囲む城壁の一部で、正面の堀川東岸の城壁は川口樋門(揖斐川に出る)から南大戸橋に至る約500メートルが残っています。

桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができた。天守閣は四重六層の勇壮なものであったが元禄十四年(1701)の大火で消失し、以後は再建されなかった。門や櫓の数は多く、享和三年(1803)の記録には本門や路地門などを合わせて六十三ヵ所、櫓は九十五ヵ所とある。

 

 

「泡洲崎八幡社」があり、「右 きやういせみち 左 ふなばみち」の道標が置かれています。
桑名の地形は古い時代には町屋川の流れにより、自凝(おのころ)洲崎、加良(から)洲崎、 泡(あわ)洲崎の三洲に分かれていたといいます。ちょうどこの辺りは泡洲崎と呼ばれていた場所で、泡洲崎八幡社はこの辺りの鎮守社だったといわれています。

 

直ぐ先の右手に現れる光徳寺には万古焼創始者の沼山弄山(ぬなみろうざん)やその後継者の加賀月華の墓があります

 

万古焼:弄山が創始した陶器で茶陶が多く赤絵に優れ、その技法は数々の人々の研究と工夫によって受け継がれている。現在では食器、花器、工芸品として愛用され、海外にも輸出されている。

 

道なりに歩くと、広い京町通りに出るがすぐ日進小学校前通りから右折して西へ向かう。交差点からすぐの右に天武天皇社がある。

天武天皇は、壬申の乱(692年)の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐在されたことにちなみ建立された神社で、天武天皇を祭祀する神社として全国唯一とのこと。天武天皇は、大化の改新とそれに続く内政外交上の大変革期に成長して、白村江敗戦後国政の表にたち、壬申の乱に勝って第40代天皇となった

 

泡洲崎八幡社の絵

 

さらに進むと道は丁字路になり、その右角に復元された火の見櫓の矢田立場がある。

この辺りが桑名宿の西のはずれとなる。

 


立場で左折して700メートルほど歩くと立派な構えの浄土真宗本願寺派の了順寺が山門を構えています。

 

その先に江崎松原跡の案内板が置かれています。
七里の渡しから大福までの東海道の両側には家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木になっていた。眺望がよく、西には鈴鹿山脈が遠望され、東には伊勢湾が見られた。松並木は昭和34年の伊勢湾台風頃までは残っていた。」とあります。

 

 

この立派な了順寺山門は桑名城の遺物と伝えられています。

 

了順寺から更に700メートル位歩くと「大神宮の一の鳥居下賜」と刻まれた石碑が建つ城南神社があります。

つまり、この鳥居が伊勢神宮の一の鳥居で、式年遷宮の際に桑名宿の七里の渡しの鳥居になり、その後、城南神社の鳥居として下賜されているのです。いわゆる使い回しのリサイクル鳥居です。

 

国道258号線に出たら地下道を通って向こう側へ渡ってそのまま直進します。

さらに南下すると、伊勢神宮の祈願を込め、桑名、岐阜の材木商により文化元年(1818)に寄進された伊勢両宮常夜燈がある

 

 

城南神社の下賜の鳥居

 

伊勢両宮常夜燈

 



朝明橋----御厨神明社の石柱----松寺の立場跡----宝性寺----富田一里塚跡碑----八幡神社の力石----十四橋----薬師寺----常照寺----力石

 



朝明川(あさけがわ)に架かる朝明橋を渡ると四日市市へと入り、地名は松寺になる。道の右側の狭い道角に御厨神明社の大きな石柱が建っている。
その直ぐ先に松寺の立場跡の案内板が立っている。立場とは、街道を往来する旅人や人足等が籠や荷物を降ろして杖を立て一休みしたところを言う。

蒔田の集落に入ると右側に宝性寺がある。宝性寺は天平12年(740)、聖武天皇の勅願で創建されたと伝えられる由緒ある寺で、別名「蒔田観音」と呼ばれています。永禄11年(1568)の織田信長の家臣滝川一益の伊勢長島の一揆で焼失。現在の建物は江戸時代の文化11年(1814)の建設です。



昔の朝明橋
朝明川(あさけがわ)は鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳にその源を発して伊勢湾に注ぐ川です。
歴史的には東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いたと伝わっています。


そのまま進み、三岐鉄道のガード下をくぐり、そのさきの十字路を左折する。名鉄名古屋線のガードを過ぎたすぐ右に、江戸から数えて98番目の富田一里塚跡碑がある。
ここ冨田には多く茶屋があり、この茶屋の名物が焼き蛤だったそうです。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では「富田の立場にいたりけるに ここはことに焼はまぐりの名物、両側に茶屋軒を並べ往来を呼びたつる声にひかれて茶屋に立ち寄り」とあり、冨田の茶屋の競争が激しかった様子が描かれています。

その先には、放置されたような八幡神社の力石なるものがあった。



富田一里塚跡碑


八幡神社の力石  およそ100圓硫D垢隆櫃だ个芭枠罎戮忙箸錣譴討い燭辰修Δ任后

 

右に近鉄名古屋線、左にJR関西本線に挟まれた富田の町並みを歩き、道をそのまま進むと正泉寺に突き当たってしまうので、手前の三叉路のクリーニング屋の角を右に曲がり十四橋に出る。
橋から20mほどの十字路の角に常夜燈があり、その先に薬師寺がある。
当寺には弘法大師が彫った60年に一度開帳される秘仏の薬師如来が祀られています。この薬師如来は大同年間(806〜810)に疫病に苦しんでいた住民のために弘法大師が自ら彫られてものだそうです。

そのまま進み丁字路の手前に常照寺(じょうしょうじ)、そのすぐ先にまた力石があった。



常照寺


力石
およそ32貫(120圈砲埜越しまで担ぎ上げた人は幾人もいなかったといわれている。
「明治時代中期、二つの寺の御堂を再建するため土台石の奉納があった。その際、地固めに集まった人達の間で、休憩時に奉納された石を持ち上げ力競べを行なわれた。茂福地区ではその後も大正の終わりまで力競べが続いた。」と説明版に記されています。


力石の丁字路を左折し、またすぐ右折すると富田山城有料道路に出る。進むと、米洗川(よないがわ)があり、橋を渡ると八田町へと入ってきます
 

 

 

地蔵堂----かわらずのの松----光明寺----多度神社----三ツ谷一里塚跡の石碑----三滝橋

 



道筋を進んで行くと、街道右手に小さなお堂がぽつねんと置かれています。これは、地蔵堂でその傍らに伊勢国八幡神社碑があります。ここから300mほどの所にかわらずのの松がある。
これは、このあたりの地名が「川原須」ということから「かわらずの松」と命名された名残の松で、樹齢200数十年の古木ですが、寂しげに街道脇に一本だけたっています。



地蔵堂


かわらずの松

さらに400m先の街道右手に「八十宮(やそのみや)御遺跡」という大きな石碑がある光明寺があります。
この八十宮とは、吉子内親王(よしこないしんのう)の幼称で、生後1ヵ月で時の7代将軍、徳川家継公と婚約しましたが、夫となる家継もわずか6歳でした。しかし婚約した2年後に家継が死去したため史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らなかったのです。

光明寺を過ぎると道が左へカーブ、すぐに右カーブ、そして国道1号線に合流する。やがて国道1号から分岐するように道筋が左へと入って行きます。その道筋に入る左手に「多度神社」が祠を構えています。 この神社の主祭神はアマテラススサノオの誓約で生まれたアマツヒコネノミコトです。このことから神宮との関係も深く、「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かければ片参り」と言われ、古くから伊勢神宮に参拝するにあたって、多度神社も併せて参ることで「両参り」になるよう言い伝えられています。

その先の海蔵川の土手際に、江戸より99番目の三ツ谷一里塚跡の石碑がある。
かつて三ツ谷には一里塚があったが、昭和20年に川を拡張した際、一里塚だったところは川の中に入ってしまい、この石碑は最近になって建てられたものです。
1号線の海蔵橋を渡り、すぐ左折して再度旧東海道に戻る。浜一色町、京町、川原町の町並を通って南へ向い、三滝川にかかる三滝橋(みたきばし)を渡るとようやく四日市宿にはいります。



三ツ谷一里塚跡の石碑



(完)
次 <四日市宿から石薬師宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=185










                             


コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック
calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>
selected entries
categories
archives
recent comment
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM