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旧東海道6(掛川から豊橋) −5


白須賀宿(しらすかしゅく)から二川宿へ>(5.8km)

白須賀宿の名前の由来は、「白い砂州の上に開けた集落」と言う意味で、和歌や多くの文献にその名が出てくる。
その名の通り宿場は海辺近くにあったが1707年の大地震で壊滅したため 翌年、潮見坂の上に移されたとの事。
多くの大名はここを素通りして浜松、舞坂、西であれば御油、赤坂に宿泊としたという。


東海道標識 白須賀宿・火鎮神社----一里塚跡・高札立場跡----神明神社----東海道標識 白須賀宿・潮見坂下----おんやど白須賀----潮見坂公園跡碑----曲尺手標識----本陣跡----白須賀宿の西端

白須賀宿に入ると、鎮守の火鎮神社(ほづめじんじゃ)の東海道標識がある。
直進すると一里塚跡・高札立場跡の表示板があり、その先に白い壁の神明神社がある。そこから400m位先にある東海道標識 白須賀宿・潮見坂下で右折して坂を上る。
この坂が潮見坂で街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されている。



白壁の 神明神社


潮見坂よりの景色は昔と変わっていないようだ。
西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることが出来る場所として、古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれる。 浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いている

坂を登りきると、おんやど白須賀がある。ここは、東海道宿駅開設400年記念として建設され白須賀宿の歴史文化や旅人の交流休憩施設となっている。
その先に、潮見坂公園跡碑がある。



潮見坂公園跡
右の説明標識には「明治天皇が江戸へ行幸するときに休まれた場所であり、その昔には、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が茶邸を新築して信長をもてなした場所でもある」と書いてある

坂を下って行くと板格子の静かな家並みが続く。町並みを楽しみながら歩いて行くと、道は直角に曲げられている。ここに曲尺手(かねんて)の説明標識があった。
曲尺手とは、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。 しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態である。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急非難をした。


その先に本陣跡がある。これは本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864年)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。
本陣を過ぎると白須賀宿の西端になる。



白須賀宿の西端を示す現代の標識




境橋----細谷一里塚跡----JR新幹線のガード----筋違橋

小さな橋である境橋は三河国と遠江国の国境であった。現在は、静岡県(湖西市)と愛知県(豊橋市)の境となっている。やっと静岡県を抜け二川宿へ向かう。

国道1号に入ると愛知県県道402号線が交差する交差点に細谷一里塚跡がある。この後は田園風景の中に延びる国道をひたすら4km程歩きJR新幹線のガードをくぐって右に行く。梅田川にかかる筋違橋を渡り二川宿に入る。



やっと愛知県に入りました。




二川宿(ふたがわしゅく)から吉田宿へ>(6.1km)

二川宿は東海道33番目の宿場。東海道を江戸から京都へと上って行くと、 三河国(愛知県)最初の宿場町だった。 宿場規模は小さく町並みも1.3km程度しかなかった。 現在では豊橋のような大開発を免れ、江戸時代の町割りがほぼそのままの状態で残り、旧東海道ではここと草津宿だけにしか残っていない本陣の遺構がある。 なお、本陣一帯は豊橋市の史跡として指定されている。

筋違橋----二川一里塚跡標柱----妙泉寺----東駒屋----二川宿本陣跡(豊橋市二川宿本陣資料館)----二川駅----クロマツ跡の石柱----飯村一里塚跡

梅田川を渡り、道なりに進み東海道本線の踏切を渡るとほどなく東海道三十三番目の宿場、二川宿となる。
JR東海道本線の踏切を横断して左折して100mほど行った右に、江戸から72里の二川一里塚跡標柱がある。そして境内に芭蕉句碑のある日蓮宗の妙泉寺がある。
この辺りは旅籠、商家の東駒屋など江戸時代の面影を残している建物も見ることができる。
この先には立派な二川宿本陣跡がある。



正月飾りの東駒屋


二川宿本陣跡(豊橋市二川宿本陣資料館)
豊橋市二川宿本陣資料館となっていて、昭和63年に江戸時代の姿に整備復元されたもので、敷地内には1716年〜1818年に建築された表門、母屋、玄関、土蔵などが当時のまま残っている。

西へ800m弱でJR二川駅につく。駅の先300mぐらいで道は東海道新幹線と別れ右方向の北へ進み、火打坂を上がって、花屋の角を左折する。道は北西へ下り坂になると旧東海道のクロマツ跡の石柱が立ってる。そこに今は無きクロマツの写真が填め込まれていた。

柳生川にかかる殿田橋を渡ると、すぐ左に江戸日本橋から73里の飯村一里塚跡標柱がある。 この一里塚跡を過ぎると道は1号線と合流し、吉田宿へと向かう。




今は無き旧東海道のクロマツ






吉田宿に入る
吉田宿は、永正2年(1505)に牧野氏が城を築いて以来の城下町として栄えた。 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒の大きな宿場だった。約7000人の人が住んでいた。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」といわれ、飯盛女の数も多い宿場として知られていた。

秋葉山常夜燈----吉田城東惣門跡---- 曲尺手門の石碑----東海道標 吉田宿----吉田宿本陣跡石碑---東海道 吉田宿の石柱-----吉田城西惣門

北西に約2.5km歩いて行くと5差路の西新町交差点に出る。
5差路の歩道橋を渡ると大きな秋葉山常夜燈がある。側には吉田城東惣門跡もあった。この東総門跡の先からが東海道三十四番目の宿場、吉田宿となる。

道は国道1号から離れ南に歩きすぐに右に曲がる。
中央分離帯に史跡 曲尺手(かねんて)門の石碑がある。曲尺手門は吉田城内への入口の一つでここから右折して300mほど北に進むと豊川に面して吉田城址のある豊橋公園に出る。
この分離帯には東海道標 吉田宿の石柱もたっている。
旧東海道は分離帯を横断して100m程で左折し、また右折して西へ進み宿場の中心である豊橋市街に向かう。



歩道橋から見える市電



秋葉山常夜燈
これは、文化2年(1805)に吉田城東惣門に近く東海道から本坂通りへの分岐道に建てられたもので、一部復元だが総高は、5.03mもあり大変貴重なものだそうです。


分離帯中にある 東海道標 吉田宿

国道259号線を横断するとすぐに吉田宿本陣跡石碑がある。この辺りが宿の中心部として一番の賑わいだったそうです。
本陣から300mぐらいにある東海道 吉田宿の石柱を右に曲がり国道23号と交差すると吉田城西惣門の跡がある。この辺りが吉田宿の西の入口ということになる。



本陣跡の石柱


吉田宿 西の入り口 西惣門






(完)






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