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旧東海道4(富士から静岡) −2

 

由比宿から興津宿へ> (10km)

神沢の信号を左に行くと江戸から39番目の由比一里塚があり由比宿に入ったことがわかる。
一里塚の先の左に綺麗で大きな公園がある。ここで一休みすることにした。これは由比本陣公園で、由比本陣公園内に設けられた美術館では「東海道五十三次」で有名な浮世絵師、歌川広重の作品を中心に展示されている。



由比宿本陣公園 本陣跡を整備復元したもので、正門、物見櫓等が復元されている

公園の向かい側に、由比正雪の生家と伝えられた染物屋正雪紺屋があった。この紺屋(染物屋)は江戸時代から400年続いているといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物道具や、天井に吊れれた用心籠は火災等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。


正雪紺屋
由比正雪  慶安の変で有名な由井正雪は優秀な軍学者であったが、仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。 慶安4年(1651年)4月、新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて、幕府を支持する者たちを完全に制圧する、という作戦を立てた。
しかし一味の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)まず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その翌日に駿府で奉行所の捕り方に宿を囲まれ、由比正雪も自決を余儀なくされ、計画は頓挫した。これが慶安の変である。


紺屋の隣には黒い塀の中に明治時代の郵便局の建物があった。

江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、飛脚屋と呼ばれていた。明治4年3月、郵便制度の創設により飛脚屋は由比郵便取扱役所となり、さらに明治8年1月由比郵便局と改称された。

平坦な道を30分ほど行くとJR東海道本線由比駅にでる。直ぐ先の歩道橋を渡って右の細い道に出ると、薩埵峠(さったとうげ)への案内が出てきた。この先は道幅も狭く、古い家並みが残り気持ちのいい街道を味わうことが出来る。寺尾地区には、名主の館であった旧家の小池邸がある。


由比宿の名主小池氏の邸宅。今は、由比宿を散策する人のために、休憩場所として開放されている。

倉澤地区に入ると江戸から40番目の倉澤の一里塚跡がある
此処から右の細い道が旧東海道で今は、ハイキング道のようで多くの人とすれちがった。坂道を登って行くと道の両側に枇杷の木が多数あり、さらに行くと今度はみかんの木に変った。このように枇杷とみかんが交互に植えられていた。蜜柑道が開けたと思ったら、薩埵峠に着いた。そこには薩埵地蔵道標があった。



薩埵地蔵道標 「さったぢぞうミち」と書いてある。「延享元甲子年六月吉日」と刻印がある。
またここには薩堙山合戦場の説明板がある
それによるとここで2度合戦があり、「一度目は1351年(観応2年)で室町幕府を開いた足利尊氏と、弟の直義の兄弟による戦いで、ここで山岳戦をして直義軍が敗退した。2度目は1568年(永禄11年)駿河に侵攻した武田信玄を、今川氏真が討つべく薩堙峠で戦ったが敗退した。」とある

トイレのある広場は沢山のハイカーで賑わっていたが、その横を抜けて展望台の脇の階段を下りて、狭い砂利の山道を道なりに下って行くと、興津宿に入ることになる。


下りに入ると絶好のビューポイントがあった。今日は富士山がきれいに見えた。ラッキー!!

        



興津宿 から江尻宿へ>(4.6km)

由比の薩堙峠を過ぎればあとは平坦な道が続くだけなので、興津に入ったらゆっくり昼食をとることにして、所々に出てくる小さな「旧東海道」の張り紙を頼りに興津に向かうが、常夜燈が適度にあり旧東海を歩いていることを確認できた。JR東海道本線の踏切を渡り西に向かい興津川にかかる興津橋をわたる。
進んで行くと、右側に身延山道道標とともに大きな題目碑がある。

身延街道は、ここから日蓮宗総本山である身延山久遠寺を結び鎌倉時代、この街道は既に駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道であった。



身延山道道標と奥が題目碑(南無妙法蓮華経の文字を日蓮宗独特のヒゲのように跳ねて書いてある)

JR東海道線興津駅を過ぎるとすぐに興津宿東本陣跡興津宿西本陣跡と続くいかにも宿場町という感じがする。
JR線路の直ぐわきに清見寺山門があり、清見寺(せいけんじ)は、階段を登り山門を潜ってから左折、右折してJR東海道本線を横断したところにある。



清見寺(せいけんじ) 奥中央に1862(文久3年)建立の立派な「鐘楼」が見える。
室町幕府を開いた足利尊氏公は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して戦死者の霊を慰め、天下大平を祈った。又室町幕府は清見寺を官寺と定め、日本を代表する寺ということで「全国十刹」の中に置き保護した。六代将軍足利義教、駿河富士遊覧に下伺せし時には、今川範政これを迎えて清見寺に来り和歌などを詠じて清遊した。この時代、画僧雪舟も清見寺に来り後年富士・三保・清見寺の景色を画いている。徳川家康公は、幼少時今川氏の人質として駿府に在りし頃、当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けた。又、後年大御所として駿府に隠栖した際には、当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依し、再三に渉って清見寺に来遊した。家康公の三女静照院殿よりは、彿殿の本尊釋迦弁る。これら諸々の因縁により、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、二百余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けるところとなった。

清見寺を後にして西へ歩き静清バイパスのガード下を潜り再度JR東海道線を渡り西へ進むと横砂町に入る。
右に東光寺の山門をみて庵原川にかかる庵原橋を渡ると、松の木が一本だけ立っている。此処には旧東海道の松と書かれた標識があった。
さらに約1km行くと辻3丁目で道は分岐し、左は1号線で右が旧東海道となる。その分岐点に細井乃松原がある。



一本だけ残っている、旧東海道の松


細井乃松原 の跡
元禄16年(1703年)の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺(約360m)松の本数206本とあったが、太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまった。

此処を過ぎると次の宿場、江尻宿に入る。

                                    




(つづく)






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