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14 旧東海道4(富士から静岡)-1 <吉原宿(よしわらしゅく)>

2018年12月1日(土曜日)  晴れ

旧東海道歩きも4回目で、JR富士駅からJR静岡駅まで 𠮷原宿から蒲原宿、由比宿、興津宿、江尻宿 の5宿場を1日で歩くことにした。


距離 43.3km 高低差 103m  11:07:47
真中の高いところが薩埵峠

 

 

(前)    13 旧東海道3 (三嶋大社〜富士)-3 <原宿(はらしゅく)>

              http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=217



吉原宿(よしわらしゅく)から蒲原宿へ>(11.1km)

 

江戸から14番目の宿場町である吉原宿は、もともと駿河湾に近い位置にあったのだが、高波などの被害により内陸へと移動して行き、最終的に和田川の西側付近が中心となった。

江戸時代はJR吉原駅付近にあった元吉原辺りに宿が設置されていましたが、高潮などの災害をたびたび受けていたため、元和2年(1616)に現在の富士市依田原付近の中吉原に移転しました。
しかし1680年(延宝8年)の大津波で宿は壊滅し東海道も通行不能となってしまい、そのため再度東海道は北へ大きく迂回する経路となり、最終的に和田川の西側付近が中心となった。

 

吉原は水に恵まれていたため江戸時代から製紙が盛んで、製紙産業の町として発展してきました。

 

 

Hiroshige15 yoshiwara.jpg

広重 左富士

 

 

妙法寺---吉原宿---左富士---中吉原宿跡---左富士神社---左富士の碑---平家越(へいけごえ)碑



冨士市今井に入ると、製紙工場の大きな煙突が見える。

工場に沿って歩くと左に妙法寺がある。ここを過ぎると𠮷原宿(元𠮷原宿)になる。

 

この寺は毘沙門天妙法寺で千年以上前、富士山の修験者の霊場として始まり、戦国時代には武田氏、江戸時代には紀州藩徳川家の信仰をうけ、元吉原宿はその門前町として栄えたようです。



沼川(鈴川)に架かる河合橋を渡ると左富士だらけになる。

酒の名前も左富士とあった。

 

川を渡り日清紡富士工場前交差点の先左に、名勝 左富士の碑と松 がある。かつてはここから富士がよく見えたのでしょうが今では製紙工場の高い建物に囲まれ全く見えません。

 

更にJR東海道線を渡った先に左富士神社がある。この辺が中吉原宿のあったところだ。

吉原宿は高潮の影響で段々と海岸から遠ざかり、北へ北へと移動して行った。

 

この左富士神社の創建は1796年(寛政8年)で、もともとの社名は古くは、「悪王子社」だったそうです。


旧街道に大きな左富士碑と案内板があった。広重の「吉原左冨士浮世絵」が大きく描かれている。


江戸から京都へ向かうと、富士山は常に右側に見えるのだが、この地点だけは左側に富士を望むことができたため、左富士と名づけられた名所。道路整備が進んだ現代においても、この道筋はしっかりと残されている。​


 

名勝 左富士の碑と松             左富士神社 


左富士の碑        

 

旧街道を進み道が左にカーブするところにある「和田川」の橋手前に平家越(へいけごえ)碑がある。


なんのことだろうと標識を読むと、「この辺り一帯は1180年(治承4年)の「富士川の戦い」で平家軍が陣を構えたところであるが、和田川沿いにあった冨士沼の水鳥が一斉に飛び立つ羽音を聞いて、敵の来襲かと思い、闘わずして潰走してしまったところであるといわれている。この故事に因み、和田川の辺に1924年(大正13年)に平家越の碑が建てられた。」との事だった。


平家越えの碑

平家越碑


この和田川に架かる平家越えの橋を渡ると、富士急・岳南鉄道の「本吉原駅」「吉原本町駅」もあり、江戸時代の後期の吉原宿のあったところであるである。元吉原、中吉原と比較し、新吉原ということになる。


八坂神社標識と東木戸跡---岳南鉄道の本吉原駅踏切---明治天皇御小休所の碑---西木戸跡---道祖神
 



岳南鉄道の「本吉原駅」踏切の手前に、八坂神社の標識とそのすぐ前に東木戸跡の道標があった。つまりここから新吉原宿が始まるということだ。

 

この八坂神社はかつて牛頭天王社といい、吉原宿東町の守護神として崇められてきました。東町の人々は宿場町の入り口ということもあり、邪気が宿場町に入らぬようにと天王さまを勧請したのです。それまでの東町の神さまは悪王子神社(現、左富士神社)だったといいます。

岳南電車の踏切を渡ると「明治天皇御小休所」碑がある。


その先がかつての吉原宿の中心で、現在はとても賑やかな商店街になっている。古い建築物は、全くなく商店街には宿場の重要な施設である本陣、脇本陣があった場所は、歩道上に金属板が嵌めこまれていました。


旧東海道はこの先を直角に左折するがその手前に、老舗の旅籠「鯛屋」があります。この店先には清水次郎長、山岡鉄舟の定宿と書かれています。

 

道を左折して、少し進み妙鳥の題目碑と道標が置かれている角を右折して進むと、小潤井川(こうるいがわ)に架かる志軒橋の手前に吉原宿西木戸跡の標が置かれている。

 

新吉原宿を後にして、次の蒲原宿へと向かう。

 


2018-08-05 15-57-<strong>15.jpg</strong> 2018-08-05 16-05-27.jpg
東木戸跡              明治天皇御小休所碑

 


2018-08-05 16-26-13.jpg
西木戸跡

この先の旧東海道は、一旦国道139号に合流してすぐ錦町交差点を右に折れ富士市役所方向へ延びる「青葉通り」をほんの少し進んだところで左折し、斜めに延びる旧街道筋へ入っていく。

 

住宅街に入ると面白いマンホールの蓋を見つけた。

 

その直ぐ先の住宅地の左手に、だいぶ傷んでいる僧行形をしている道祖神があった。


道祖神とは、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されているものである。

  
カラーのマンホールの蓋          僧行形をしている道祖神



 

間宿本市場---鶴芝の碑---本市場一里塚碑---東 間宿(あいのじゅく)

 

 


暫らく住宅街の道が続くが、富士市本市場に入ると県の総合庁舎の前に「旧東海道 間宿 本市場」の石碑と案内板あった。

吉原宿と次の蒲原宿の中間の休憩所で多くの茶屋が立ち並んでいたところだ。
白酒売りの茶屋で憩う旅人が、富士を背景に描かれている広重の絵も添えられている。

 

この先に流れる富士川とすでに渡ってきた潤井川には橋が架けられておらず、両川が増水すると川止めになり、富士川と潤井川の間にいた旅人は移動することもできず、この辺りの街道に取り残されてしまうことがたびたび起ったとのことです。

 

 

「旧東海道間宿本市場」の石碑と説明標識

直ぐ先には、鶴芝の碑があったが、草木に覆われて見落としそうだった。
鶴の茶屋があったことを残す碑で、ここから眺めた冬の富士が、鶴が富士の中腹で舞っているように見えたことからこの名をつけたとされている。京都の画家蘆州(ろしゅう)が鶴を書き、これに江戸の学者亀田鵬斉(ほうさい)が詩を添え、石碑とした物で、富士市に残された数少ない貴重な江戸時代の文化財とのことだが、管理が悪いのか全く分からない



草木の奥の 鶴芝の碑 

 

その先道路の分離帯に「旧東海道跡地」の標識があり、信号も何もない道路を横断することになる。何とも不自然な感じがした。

製紙工場の煙突が見えるその先にJR富士駅があるはずだ。冨士税務署の手前の堀の側に本市場一里塚碑があった。江戸日本橋より35番目の一里塚である。これも周りが整備された様子がなくそのうち見えなくなりそうであった。
この一里塚が置かれている場所までが「間の宿・本市場」だったようです。


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分離帯にある標識 この脇を通り抜けます。    本市場一里塚の碑

一里塚跡を過ぎると旧東海道は富士本町通りと交差する。この道を左に折れ真っ直ぐ行くとJR冨士駅である。 この交差点には、「東 間宿(あいのじゅく)」の標識が立っていた。

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東・間宿(あいのじゅく)の標識

 

 

 

 

JR富士駅----札の辻の石柱----秋葉山常夜燈----松岡水神社と渡船場跡の碑----岩淵の一里塚----野田山不動明王の石碑

 

 




JR富士駅の直ぐ前から富士山が街並みの向こうに大きくそびえ立っていた。


旧東海道に入ると直ぐに札の辻の石柱(昔の高札場跡---幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のこと)を見つける。

そのまま進み、身延線の柚木駅のガードをくぐり、分岐を左に行くと「左東海道の道標と秋葉山常夜燈」がある。
この先にも街道筋には要所要所に秋葉山の常夜灯がある。

 

 

札の辻の石柱




左東海道の道標と慶応元年に建立された古い秋葉山常夜燈

この先は、富士川を渡る。

川の手前には、富士川渡船の安全を祈願する松岡水神社渡船場跡の碑がある。
富士川は天下に聞こえた急流で水量も多く満水時には渡しも止められた、徳川家康の交通政策で、渡るには船を利用するしかなかった。



水神の森にある渡船場跡の碑と右には富士山道の碑が立っている


今は、立派な鉄橋の脇を歩いて渡ることが出来る。橋の中央からの富士山の眺めも素晴らしかった。

橋を渡った先は、眼下に富士川を見ながら坂を登り突き当りの常夜燈を左に行くと、

東海道標識 間宿岩淵 と 岩淵の一里塚がある。

東海道標識によると、次の蒲原宿まで三十二町と書いてあります。



 
江戸より37里の岩淵の一里塚

一里塚を右に曲がり道なりに進み郵便局の手前でまた右に曲がり緩い坂を上ると東名高速道路のガード下をくぐると正面に大きな野田山不動明王の石碑があり、ここを左に行くと旧東海道でさらに下り坂を歩いてJR新幹線の線路を潜り、少しの登り坂を行き東名高速を横断すると蒲原宿になる


とても大きな>「野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師」と書かれた道標と「薬師如来」と書かれた石碑




(つづく) 15 旧東海道4(富士から静岡)-2 <蒲原宿(かんばらしゅく)>

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