旧東海道10 (関から京三条大橋)-7 <大津宿(おおつしゅく)>

<大津宿(おおつしゅく)から京三条大橋へ>(9.8km)

 

(前) <草津宿(くさつしゅく)から大津宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=195

 

大津宿は日本橋から53番目(最後)の宿場です

規模は、南北一里十九町(4キロ強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒があった。また近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、東海道五十三次の宿場の中でも最大の人口を有し、大変賑わっていた。

 

広重 大津

 

 

西方寺----滋賀県庁----札の辻十字路----大津宿本陣跡----蝉丸神社下社----逢坂の碑

 

 

 

平野神社を過ぎ小さな川「常世川」を渡ると、いよいよ53番目の宿大津宿に入ります。

小さな川を渡ると、左に西方寺がある。

 

西へほぼまっすぐ市街地の中を通って行くと、左に滋賀県庁が見える。

 

道は真っ直ぐ国道161号が通る大通りに向かうがこの道は、京都へ通じる道ということで、京街道とも呼び街道沿いの街を京町と名付けていたそうです

 

札の辻十字路に出るので、左に曲がり南下してさらに坂道を上っていく。

札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。
ここは、東海道と北国海道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国海道であった。

 

滋賀県庁

 

南下すると大津宿本陣跡の標識が置かれている。ここは「大塚嘉右衛門本陣」です。

 

坂を上って行くと、JR東海道本線(琵琶湖線)を横断する陸橋からレンガ作りのトンネルが見える。

その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流します。大津宿はここで終わります。

 

これは明治時代に造られた煉瓦製で、鉄道開通から100年以上が経つが今も現役で頑張っています。

 

少し行くと右側に、琵琶の名手蝉丸をまつる「蝉丸神社下社」の鳥居が線路の向こうに見えます。

蝉丸神社は音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていたといいます。天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」がありますが、蝉丸の生い立ちははっきりしませんが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようです。

 

 

いよいよ京都三条大橋に向けた最後の道中となります。大津から京都三条への道は峠を2つ越えます。その一つが大津と山科を隔てる逢坂山で、平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところでもあります。

 

京阪電気鉄道の踏切りを渡り、ここから逢坂山の上りになります。

逢坂(おうさか)の地名は「日本書紀」の神功皇后の将軍「武内宿禰」がこの地で忍熊王と出会った、という故事に由来しています。

 

そして右に逢坂の碑(おうさかのひ)と説明板が建っています。

 

線路の向こうにある「蝉丸神社下社」の鳥居

境内には蝉丸の歌 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌碑があります。

 

逢坂の碑(おうさかのひ)

この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られた。

 

 

 

蝉丸神社上社ー----逢坂山弘法大師堂ー----逢坂山関跡----大津算盤の始祖の石柱----髭茶屋の追分----車石----三井寺観音道

 

 

左に京阪電鉄京津線を見ながら逢坂山へ登っていくと道路の反対側に、朱色がとてもきれいな鳥居の蝉丸神社上社が見える。

 

左右に山が迫る逢坂越えのルートは右にカーブするが、その手前に逢坂山弘法大師堂もあり、隣には、逢坂常夜燈がある。そして頂上へと向かう。

 

国道1号の上を跨ぐ歩道橋をくぐると、前方に信号交差点が現れる。この信号交差点の辺りが逢坂山の頂です。この信号交差点を右側へ移動し、いったん国道1号線と分岐して、旧東海道へと進んでいく。

 

ここに、逢坂山関跡(おうさかやませきあと)がある。

 

蝉丸神社上社

琵琶の名手蝉丸をまつる蝉丸神社は、逢坂山の麓には旧東海道沿いに三ケ所ある。

 

逢坂山関跡

この関は、伊勢の鈴鹿関・美濃の不破関と並ぶ天下の三関のひとつであったが、平安後期から徐々に形骸化されその形を失って、いまだにどこに置かれていたか正確な位置は定かではありません。
隣の逢坂常夜燈は、寛政6年(1794年)建立。

 

京阪電気鉄道の線路を跨ぐ横断歩道橋を渡って再び国道1号へ合流する。

国道1号にそって歩くと民家の前に「大津算盤の始祖、片岡庄兵衛住宅跡」の石柱が置かれていた。片岡庄兵衛は慶長17年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始して、幕府御用達の算盤師になったそうです。

 

およそ700mぐらい進むと名神高速道路をくぐり、すぐに国道1号から分岐して左手に入っていく、この道筋の北側が滋賀県大津市追分町南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり県境を歩くことになる。

 

少し行くと三差路があり伏見道(髭茶屋)の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。

 

東海道53次は、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る東海道になる。

 

 

追分の賑わいの様子が描かれた絵

 

その先の右側の閑栖寺の門前に東海道 京三條 と刻まれた道標車石が置かれている。

この付近の街道は車道と人道とに分けていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道としていた。

 

車石とは、牛車(荷役)用の轍を石に刻み敷設したもの。大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資として利用されてきたが、この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。 京都の心学者・脇坂義堂(わきさかぎどう)は、文化2年(1805)年に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを車石・車道と呼んでいる。

 

旧道はいったん国道1号線によって分断されますが、これを渡ったとろでようやく逢坂を越えたことになります。

 

国道1号を渡った所に三井寺観音道と刻まれた大きな道標と常夜燈がたっている。

三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院です。三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分になります。

 

閑栖寺の前に車石が置かれている

 

 

 

 

山科地蔵徳林庵----明治天皇御遺蹟碑----五条別れ道標----大乗寺への案内----日ノ岡峠

 

 

右手にある京阪鉄道の四宮駅入口の信号交差点を渡ると、右側に二つの石柱を置いた山科地蔵徳林庵(やましなじぞうとくりんあん)があります。

 

間もなく山科駅前交差点を越えたビルの植え込みに明治天皇御遺蹟碑が置かれています。

 

さらに西に進むと五条別れ道標が置かれています。

 

山科地蔵徳林庵

旧東海道沿いに立つ寺院で、地蔵尊は小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅令により、京の都の主要街道六箇所に安置された地蔵のうちの1体である。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもある。

 

五条別れ道標

標の北面には「右ハ三條通」、東面には「左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道」、南面には「宝永四丁亥年十一月」、西面には「願主・・・ 」と刻まれています。ここから京都三条大橋までは約6卍の距離です

 

西へ進んで行くとこの先で三条通と合流します。三条通とあることから、この道筋を辿っていけば京都三条大橋へ到着するはずです。ただし、旧街道はこの三条通とお別れして、東海道中で最後の峠越えをするためJRのガードをくぐり左の道へと入っていきます。

その先は日の岡地区で、大乗寺への案内がある先の交差点を越えると、旧街道の道筋は上り坂に変わっていきます。
ここが東海道中で最後の峠「日ノ岡峠」です。

 

 

 

亀の水不動尊----大乗寺----蹴上駅----三条神宮道交叉点----坂本龍馬・お龍結婚式場跡----道標----京都三条大橋

 

 

坂を登った左側に亀水不動尊(かめのみずふどうそん))があります。

これは元文3年(1738)木食正禅養阿上人(もくじきしょうぜんようあ)が、峠の途中のこの場所に道路管理と休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の喉の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待したといいます。

 

大乗寺までがキツイ登り坂です。ここを過ぎると道筋は平坦になります。大乗寺からおよそ600m強ほど進むと下り坂となり、右手からくる県道(三条通り)に合流します。坂を下ると地下鉄の蹴上駅があります。

ここからは臨済宗最高位の古刹で、義仲信長も上京の際には必ず詣でたという南禅寺もすぐです。

東海道はそこを左へとカーブして、坂を下りきったあたりが粟田口です。

 

三条神宮道交叉点にさしかかると右手に平安神宮、左に知恩院の交通標識が現れます。このまま直進していきます。

 

亀の水不動尊

 

三条神宮道交叉点

 

その先の白川橋交差点の少し手前の左側に「坂本龍馬・お龍結婚式場跡」の石柱が置かれていた。

 

白川橋の脇には、東面に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と刻まれた道標が建っています

 

ここからゴールの三条大橋まではわずか500mです。鴨川手前の川端通りの信号を渡ると、ようやく旧東海道歩きのゴール三条大橋に到着です。日本橋からここまで126里余(約495キロ)を歩いてきました。これで旧東海道歩きは終了になりました。

 

 

この石柱が置かれているあたりには、以前は青蓮院の塔頭である金蔵寺が堂宇を構えていたといいます。そしてお龍の父である楢崎将作は金蔵寺に仕える医師だったことで、お龍の家族は身を寄せていたようです。そんな縁で龍馬とお龍はこの金蔵寺で祝言をあげたそうです。ちなみに祝言は元治元年(1864)のことです。

 

道標 是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち(知恩院、祇園、清水)

鴨川

 

 

ゴールの三条大橋です。

三条大橋は京都市にある三条通の橋で、鴨川にかかっている。

東海道と中山道の終点として、また東国への出発点として、その役割を果たしてきた。

現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で昭和25年(1950)に作られた。欄干には当時の擬宝珠(ぎぼし)が一部残っている。 橋の東側には江戸時代の勤皇思想家である高山彦九郎像が、西側には東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんの像がある。また、日本で最初の駅伝がここからスタートしたことにちなんだ碑が建っている。

 

(完歩万歳!!)

 

 

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


旧東海道10 (関から京三条大橋)-6 <草津宿(くさつしゅく)>

<草津宿(くさつしゅく)から大津宿へ>(14.0km)

 

(前)<石部宿(いしべしゅく)から草津宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=194

 

草津宿は日本橋から52番目の宿場です

規模は、天保14年(1843)当時の宿内の長さは南北7町15間半(約792m)東西4町38間(約505m)で、家の数が586軒、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠は72軒でした。

この宿は平安時代からあり、東海道中山道との分岐点として、次第に交通の要衝として重要な位置を占めるようになった。

 

 

広重 草津宿

 

草津追分の絵

  

道標----追分道標----草津宿本陣----草津政所跡----立木神社

 

 

今は涸れている草津川の北東側沿いに歩き、国道1号を越えて左に曲がって川を渡ると、宿入口となる道標がある。

この道標を右に500mほど行くと、今度は追分道標がある。これは、東海道と中仙道の追分になる。

トンネルができるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へと行けた。

 

中山道は、江戸五街道の一つで日本橋を起点として西の京都三条大橋までの135里(526.3キロ)です。ここ草津までは日本橋から129里(505.7キロ)あり、その間に67宿が置かれていました。またその間には中山道の難所と言われる木曽路が横たわり、木曽谷に沿って11宿が置かれていました。

 

道標

草津宿の江戸方の入口であった。草津川の堤上に建つ火袋付石造道標である。総高は約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816年)3月に建てられた。
竿には「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」とそれぞれの行き先を刻んでいる。

 

 

追分道標

常夜燈は文化13年(1816)建立で高さ4.5mの火袋付きで「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれていて、江戸時代の「草津追分」を示す道標を兼ねていました。江戸時代の中山道はここで東海道に合流していたので、ここから京三条大橋までは同じ道を歩くことになります。


中仙道へのトンネル  上に天井川の草津川があります。

 

追分道標からは中仙道と合流になります。この直ぐ先の右に、門柱に「草津宿本陣」と墨書きされた板が下げられている田中七左衛門が営んでいた草津宿本陣跡があります。この本陣には多数の有名人が宿泊していて忠臣蔵の浅野内匠頭長矩吉良上野介、新撰組の土方歳三藤堂平助など、シーボルト皇女和宮明治天皇など多士済々である。

 

その先の左手に「太田酒造」が店を構えていて、草津政所跡の説明板が置かれている。

太田道灌の末裔が江戸時代以来営む造り酒屋で、街道時代には草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれ草津宿の政治的中心を担っていた場所にありました。旧家の家柄で「道灌」という銘柄の酒樽が店の前に置かれています。 

 

 

草津本陣跡(田中本陣跡)

敷地はなんと1300坪もある広大なもので、建坪は468坪、部屋数は30余もあり、現存する本陣の中では最大級で国の指定史跡です。

敷地内には、かつての本陣の姿を髣髴とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、きわめて重要な文化遺産である。 

 

真っ直ぐ進み「立木神社前交差点」の先の小さな伯母川(志津川)にかかる赤い欄干の橋の奥に朱色の鳥居が立っています。

これは、立木神社(たちきじんじゃ)です。境内には延宝8年(1680)11月の草津宿最古の追分道標が置かれています。

また神社に鎮座するのは狛犬が普通ですが、この神社には獅子の狛犬が祀られていました。

草津宿の京側の入口は立木神社の先に黒門があったとされていますが、その跡は現在では確認できません。立木神社がある場所で草津宿は終わります。

 

立木神社の橋と鳥居

 

 

立木神社の獅子の狛犬

立木神社は、旧草津宿と旧矢倉村の氏神でした。創建は神景雲護景雲元年(767)と伝えられる古社で、その名前は常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来しています。

 

 

 

 

野路一里塚----教善寺----野路萩の玉川----弁天池

 

 

草津宿を後にして、ひたすら南下して国道1号を横断する。この角に野路一里塚の石柱が立っている。日本橋から119番目、京三条大橋からは6番目)の一里塚です。

すぐさき左側の教善寺の前を通り過ぎると、県道43号と交叉する。ここは地下道をくぐるとすぐ右手に野路萩の玉川の立て札がある。

 

野路の玉川は十禅寺川の伏流水が湧き水になり一面に咲く萩と共に近江の名水、名勝として有名だった場所です。

源俊朝が千載和歌集で「あさもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり」と詠んだ他、多くの歌人が歌を詠んだことで知られています

 

野路一里塚跡

 

道が右に少しカーブして先に大きな池がある。これは弁天池という名前が付けられている。

この先は緩い登坂になる。坂を登りきると、信号交差点があり、その下を狼川(おおかみがわ)が流れています。

そこの小さな標識に瀬戸唐橋まで4.9kmと表示されていた。いよいよ大津も近くなってきた。

 

 

弁天池の弁天島

池の中に弁天島があり、江戸時代の大盗賊日本左衛門が隠れたとの伝説が残っているようです。

 

 

月輪寺----東海道立場跡----一里山一里塚跡----大江の千里

 

 

 

 

弁天池から南西へ歩いているといつの間にか大津市に入っていて、道はゆるい下り坂が続く。しばらく行くと月輪寺の敷地に「新田開発発祥の地」「明治天皇御東遷御駐軍」の石碑がある。

さらに100mも行かないところの左に東海道立場跡石柱がある。

 

月輪池を回るように進むと、一里山一丁目の交差点にさしかかる。これを右に行くとJR瀬田駅があります。

そして、この角に一里山一里塚跡(日本橋から120番目、京三条大橋からは5番目)が置かれています。

 

この側にある道標に「三条大橋まで5里余り、江戸日本橋まで120里余り」と書かれていた。

 

 

立派な一里山一里塚跡

 

大江4丁目の三叉路の手前に何やら聞いたことのある「大江の千里(ちりんさん)」の標識が置かれている。

 

大江千里は、平安時代前期の歌人で中古三十六歌仙の一人として、百人一首の歌人としても著名な人で、その奥方がこの地に住まいしていたと説明されていた。

 

道は西へ真っ直ぐ進み次の四つ角を鉤の手に左に曲がり、そのまま真っ直ぐに南下する。

 

 

 

浄光寺----大場の桜----檜山神社----正法寺----建部大社----瀬田の唐橋------京阪石山駅

 

 

浄光寺の手前で再び直角に右に曲がると、左の土手に大きなさくらの古木があり、そこに大場の桜の説明標識がおかれていた。

 

そして道は、旧国道1号線の広い道に合流する。合流地点で左に折れ高橋川に架かる赤い橋を渡ると、左手に檜山神社の鎮守の森がみえる。

 

その先の右手に凄い建物があった。これは、八景山 正法寺 で、屋久杉の巨木が建物の一部になっている。(ビックリ!)

 

商店街を進み、左の細い道へ入って行くがすぐに大きな通りに合流する。そしてこれを右折する。ここに建部大社の大きな鳥居がある。

 

この建部大社は、源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、源氏再興を祈願し、その後、宿願叶って建久元年(1190)の上洛の際に再びここを訪れ、幾多の神宝と神領を寄進し深く感謝したといいます。

 

 

 

大場の桜  樹齢200年の古木ですが毎年美しい花を咲かせているそうです。

 

高橋川周辺

 

正法寺 巨大な屋久杉とお堂が一体となっている。

 

建部神社(たてべじんじゃ)の一の鳥居

祭神は瀬田川の龍神と俵藤太秀郷。

 

真っ直ぐに行くと、間もなく瀬田川畔の唐橋東詰交差点に出る。交差点を渡った先には「常夜塔」と「句碑」が建っている。

その先が、瀬田の唐橋で琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋で、奈良時代からあったと伝えられています。

中の島の上には、この橋に関わる伝説の一つの「俵藤太百足(むかで)退治」の話がかかれていた。

 

「俵藤太秀郷(モデルは鎮守府将軍藤原秀郷)が唐橋を渡ろうとすると、大きな蛇が寝ていた。藤太は平気でそれをまたいたが、実はその蛇は瀬田の竜神が化けていたものであった。龍神は藤太の勇気に感心し、三上山に住む仇敵の百足退治を依頼する。藤太は百足の目を射抜き見事にしとめる」という話です。

 

橋を渡り、京阪石山坂本線の線路を越え鳥居川町の交差点を右折するとJR京阪石山駅に達する。

JRのガードをくぐり線路の反対側へと移動し、琵琶湖の西側に沿って北上する

 

 

 

 

 

この橋は、古代から東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝だったため、唐橋を制する者は天下を制すとまでいわれ、壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、その度に橋は破壊と再建を繰り返してきました。そして織田信長によって唐橋が架け替えられた時、中ノ島を挟んで大橋と小橋かける現在のような橋になったと言われています。

瀬田川は、琵琶湖から唯一流れる川で、京都府では宇治川、大阪府では淀川と名前を変えて大阪湾に注いでいます

 

 

 

膳所城勢多口総門跡----若宮八幡神社----光源寺----篠津神社----大養寺----膳所神社----膳所城跡----和田神社

 

 

 

琵琶湖の西側に沿って北上すると、民家の玄関前に、膳所城勢多口総門跡の石柱がある。つまり膳所城の北のはずれになる。そしてここは膳所藩と大津陣屋領との境にあたります。 

 

徳川家康は慶長7年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、大津を直轄地にして大津奉行が支配する大津陣屋を置きました。これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになります。

 

ここを左折して京阪鉄道の踏み切りを渡るとすぐ右側に若宮八幡神社がある。

 

若宮八幡神社は、壬申の乱(672年)があって3年後の白鳳4年(675年)、天武天皇が宇佐八幡の神託により造営した。 神社の社殿等が完成したのは白鳳8年(679年)で、九州の宇佐八幡宮の次に古い八幡宮であり、当初は粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となった。 表門は膳所城の犬走り門です。

 

膳所城勢多口総門跡の石柱

 

 

若宮八幡宮の神楽殿

 

若宮八幡を過ぎると道は鉤形になり、ほぼ直角に右に曲がり、再び京阪鉄道の瓦ヶ浜駅手前の踏切を渡る。

この辺りは神社や仏閣が多い。

左にある光源寺を過ぎると道はまた鉤型に左折する。すると篠津神社(しのつじんじゃ)がある。

 

篠津神社の祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。古くから産土神(うぶすながみ)として庶民の信仰を集めていた。 現在重要文化財に指定されている神社の表門は、膳所城北大手門をここに移築したものです。

 

真正面に見える京阪鉄道の「中ノ庄駅」の手前でまたまた道筋は鉤形となり右折してまっすぐ行く。

道の左側に長屋門を持つ大養寺が現れる。この長屋門は膳所藩の武家の屋敷門だったようです。

大養寺の長屋門

 

大養寺の直ぐ先の十字路を左に行くと、諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉北政所徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っているという膳所神社(ぜぜじんじゃ)がある。

 

交差点を右へ進むと琵琶湖を望む膳所城跡(ぜぜじょうあと)に至ります。

 

膳所城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、大津城を廃し、城造りの名手と言われた藤堂高虎に築かせた城。湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた。膳所の浮城と謂われた。 現在は完全に陸続きとなった本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣がわずかに残っているほか、門が模擬再建されている。城門は膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されている

 

旧東海道は先の十字路を直進します。間もなく左に石田三成が縛られていたという和田神社があります。

 

道は和田神社の先で左折するが、この辺りでようやく前方に琵琶湖を望むことができた。

 

和田神社

境内の公孫樹(いちょう)は、樹齢約600年、樹高約24メートル、目通り周囲約4.4メートルの巨木。関が原の合戦に敗れ捕らえられた石田三成を京へ護送する途中、休止の際に一時つないだといわれている。

 

ようやく琵琶湖がみえてきました。

 

 

響忍寺----石坐神社----桃源寺----膳所城北総門跡----義仲寺----平野神社

 

 

 

左折した道は、響忍寺の周りを回わりこむようなっていて、道なりに行くと左に石坐(いわい)神社がある。

 

この神社の祭神は、海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)・豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)など名だたる方々を祀っています。 本殿、及び木造天命開別命坐像、木造伊賀釆女宅子媛坐像、木造弘文天皇坐像、木造彦坐王坐像が国の重要文化財に指定されている。

 

 

響忍寺  道はこの寺を巻くように続いている

 

石坐神社社殿

 

石坐神社の先にある白壁のきれいな桃源寺を右に見て進むと道がクランクして角に膳所城北総門跡の石碑が置かれている。膳所城下町の北の出入口になる。。これは先にあった膳所城勢多口総門と対をなすもので、大津口総門ともいう。

 

さらに500m行くと左側に国指定史跡の義仲寺(ぎちゆうじ)がある。

 

寺の由来書によると「寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い「粟津」で討ち死しましたが、しばらくして側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲を供養したと伝えられています。

 

白壁の美しい桃源寺

 

膳所城北総門跡

 

義仲寺(ぎちゆうじ)

義仲寺の名は、源義仲(みなもとのよしなか)を葬った塚のあるところからきているが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したと伝えられている。 門を入ると左奥に、松尾芭蕉の墓と木曽義仲の供養塔が並んでいる。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に51歳で亡くなり、「骸は木曾塚に送るべし」の遺言により当寺に埋葬された。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は著名な句。 寺は、昭和42(1967)年11月に国指定の史跡となった。

 

進んでゆき京阪電気鉄道の踏切を越えると、右に石場駅が見える。その先に、古くから芸能の神として信仰を集めていた平野神社の石碑が建っている。

 

平野神社を過ぎると、いいいよ最後の宿場、大津宿に入ります。

 

平野神社の石碑

神社は坂の上にあり、街道からは見えないが、祭神は精大明神で蹴鞠の祖神といわれている。古くから芸能の神として信仰を集めてきた。江戸時代には、蹴鞠を家職とする公家の飛鳥井・難波両家も当社を信仰し、その神事に奉仕していた。毎年8月に境内で蹴鞠祭が催されているそうです。

 

 

 

(つづく)<大津宿(おおつしゅく)から京三条大橋へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=196

 

 

 

 

 


旧東海道10 (関から京三条大橋)-5 <石部宿(いしべしゅく)>

<石部宿(いしべしゅく)から草津宿へ>(10.5km)

 

(前)<水口宿(みなくちしゅく)から石部宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=193

 

石部宿は、江戸から51番目、京都三条からは3番目の宿場町です。

規模は、宿内の距離1600m、家の数458軒、本陣2軒、脇本陣はなく、旅籠32軒です。

京都から36kmあり、京都を朝出発すると石部に夕方ころ到着することから「京立ち石部泊まり」と言われ、江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場であった

 

 

広重・石部の景 石部の宿場の景色ではなく、目川の立場の様子を描いています。

 

 

 

 

東見附跡----吉姫神社----高札場跡----三大寺本陣跡----小島本陣跡----石部一里塚----西の見附跡----西繩手の案内板

 

 

落合川を渡ると、「これより石部宿」の木標が立っている。そこから200m先が東見附跡(東木戸)です。

 

見附は、桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見はるところから、「見附」といった。石部宿には、東西二ヶ所にあり、見付の西側には、目見改場がそれぞれ設けられていた。

 

東見附跡の先の左に吉姫(よしひめ)神社の鳥居がある。境内には南北朝時代作の木造狛犬や万病に効能あらたかな宮前の湧き水があるそうです。

この辺りの街道沿いは、格子戸のある古い家が目立ち、宿場らしい風情が漂う街並みです。

 

 

 

これより石部宿

 

見附跡の説明版に置かれた広重の絵

 

吉姫神社の鳥居

 

石部中央交差点の手前右に高札場跡、交差点の先には問屋場跡石部城址の案内板が置かれている。

そのすぐ先の右手に「三大寺本陣跡」そして更に先の左側に「小島本陣跡」(石部本陣跡)の石柱と「明治天皇聖蹟碑」が置かれている。

 

小島本陣跡

慶安三年(1650)吉川代官所の跡地に建てられ、永応元年(1652)に本陣となった。敷地2845坪に間口45間、奥行31間、建坪775坪、部屋数が26室、玄関や門が付いた家で東海道の豪壮鮮麗な建てものとして有名であった。しかし老朽化により昭和43年に取り壊されて現在は、跡形も無くなったいる。幕末には14代将軍徳川家茂が上洛の際に宿泊した。最後の将軍・一橋慶喜も上洛の際、ここで小休止している。また、新撰組局長、近藤勇も江戸下向の際に宿泊しているとあり、明治天皇も御宿泊され、明治天皇聖跡碑が残っている。

 

道筋は右手に緩くカーブしながら、宿内の鉤の手にさしかかり、ここで街道は鋭角的に右に折れる。突き当りを左に曲がると、石部一里塚の案内板が立っている。日本橋から116番目(約456km)です。

石部一里塚跡から200mほど先の信号交差点を渡った右角に西の見附跡の説明板が立っていて、ここが石部宿の京側の入口である西の木戸になります。ここで石部宿は終わります。

 

石部宿を後にするとすぐに、西繩手の案内板がある。

 

縄手とは、立場から立場の道の事を言い、石部宿の西にあることから西繩手と呼ばれていた。江戸時代、ここは宿内に入る前に大名行列を整列した場所で長い松並木がありました。」と書かれていた。

 

 

 


長徳寺----福正寺(木造地蔵菩薩坐像)----和中散本舗----六地蔵一里塚跡

 

 

宮川に沿って西北へ行くとJR草津線に出会うので、さらに線路沿いに歩いて行くと、名神高速道路が前を横切っている。このガードをくぐると、地名は湖南市から栗東市(りっとうし)になる。伊勢落集落林集落を通り抜けると、右側に長徳寺があり、境内には石仏群が祀られている。

 

長徳寺 石にはめ込まれているのは、「上野夜雨(かみののやう)」の絵と歌です。

 

街道が左にカーブするところに「国宝地蔵尊」と刻まれた石碑と説明板が置かれている。


これはは福正寺にある96.5僂離劵離一本造りの木造地蔵菩薩坐像で、平安時代の作といわれ国の重要文化財に指定されています。六地蔵の地名の由来になった地蔵尊の一つのようです。

 

直ぐ先の左側に古めかしい立派な建物が見えてきた。これは街道時代に常備薬である和中散を製造、販売していた旧和中散本舗の豪商「大角弥右衛門家」であった。

和中散本舗(わちゅうさんほんぽ)

徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を飲んだところただちに直ったことから、 腹の中を和らげるという意味で名付けられた和中散は、腹痛の漢方薬で、道中薬として広く普及しました。

大角家は間宿の茶屋本陣で、大名や幕府要人の休憩に使われ、シーボルトも立ち寄ったそうで、国の指定重要文化財となっています。

 

旧街道と116号線が一旦合流してすぐ分岐する所に東海道一里塚跡の石碑が置かれている。これが日本橋から117番目(約459km)六地蔵一里塚跡です。

 

六地蔵一里塚跡

 

 

 

 

肩かけの松----行者堂----手原醤油----手原稲荷神社----すずめ茶屋跡----鈎陣所ゆかりの地----葉山川橋----善性寺----東海道 やせうま坂の道標----地蔵院----目川村の一里塚

 

 

この分岐の右の細い道に入って行くと、右手にある西厳寺という寺の前に1本の松の木が立っていた。これは肩かけの松と呼んばれているそうです。

肩かけの松  

旅人たちがこの松の木の下で荷物を担ぐ肩を変えたことにその名の由来があると伝わっています。

 

松の木から500m程先で、名神高速道路栗東ICへの接続道路の高架をくぐる。そこの右に小さなお堂が建っていた。これが行者堂です。

この先には、蔵付きの立派なお屋敷が残っている。「東海道手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」と書かれた屋敷が手原醤油製造の家だ。

 

またその直ぐ先の左側に赤い柵で囲まれている神社が手原稲荷神社で、江戸時代の「東海道名所記」に「左の方に稲荷の祠あり 老木ありて傘の如くあり 傘松の宮という。」と書かれていたそうです。

 

手原稲荷神社

 

細い街道を進むと三叉路になり、その角にすずめ茶屋跡の小さな石柱がある。ここを左に行くと上鈎池(かみまがりいけ)の脇に 九代将軍足利義尚公鈎陣所ゆかりの地の立派な石碑が置かれている。

 

すずめ茶屋跡の石柱

 

九代将軍足利義尚公 鈎陣所ゆかりの地の石碑

室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。近江守護職位 高頼は、社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年10月近江へ出陣、鈎に滞陣した。
滞陣2年目に病で延徳元年3月に、25歳の若さで当地で陣没した。
」と記されています。

 

 

先に見える葉山川に架かる葉山川橋を渡りまっすぐ行くと左側に「善性寺」がある。

ここは、シーボルトが立ち寄ったことで知られている。シーボルトはその時の印象を「江戸参府紀行」に「かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学せり」と綴っています。

この先はT字路になっていて、突き当りに「東海道 やせうま坂」と刻まれた道標が置かれている。

 

ここを右に行くとすぐに地蔵院がある。この寺は神仏混合の寺として今も残っています。

道なりに左にカーブすると東海道一里塚の石柱が立っているこれは、日本橋から118番目目川村の一里塚です。

 

目川村の一里塚

 

 

 

 

専光寺----目川立場元伊勢屋跡----乗円寺----老牛馬養生所跡

 

 

一里塚の200m程先の右側に専光寺があり、その先に目川立場元伊勢屋跡(めがわたてばもといせやあと)の案内板と田楽発祥の地碑」がおかれている。

これは、東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれ、ここで共された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で、独特の風味を有し東海道の名物となったそうです。

 

目川立場元伊勢屋跡

 

その先に乗円寺があり突き当りを右に行き、新幹線の下をくぐると、右側に「従是東膳ヽ領」と書かれた「領界碑」が置かれている。

そのすぐ先に「老牛馬養生所跡」 の碑が置かれている。

看板には「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎすることはやめようと呼びかけ、天保12年4月に当地が、東海道、中山両街道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬が余生を静かに過させる養生所を設立し、県下の老牛馬を広く収」とある。(**打ちはぎとは、殴り殺して皮を剥ぐこと。)

 

この先草津川の土手に上がるといよいよ草津宿に入ります。

 

 

 

(つづく)<草津宿(くさつしゅく)から大津宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=195

 

 

 

 

 

 

 


旧東海道10 (関から京三条大橋)-4 <水口宿(みなくちしゅく)>

<水口宿(みなくちしゅく)から石部宿へ>(13.7km)

 

(前)<土山宿(つちやましゅく)から水口宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=191

 

水口宿は、50番目の宿場に指定されて発展した。特産品は、藤細工、煙管、かんぴょうなど。
宿場の歴史は古く、室町時代に伊勢参宮の宿村として設けられたのが初めと言われている。その後1585(天正13年)豊臣秀吉が家臣の中村一氏に水口岡山城を築城させたことにより、宿場としての町割が整備された。
天保14年(1843)当時の宿内の距離は東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒という規模でした。

 

広重  女性らがユウガオの果実を細長く削って干瓢づくりに余念がない様子を描いています。

 

 

山川橋----東海道標 水口宿----東見付(東入口)跡----本陣跡----高札場跡----問屋場跡----忍者最中----水口石----百間長屋跡----五十鈴神社----林口の一里塚跡

 

 

国道307号を横断して山川に架かる山川橋を渡ると右側に小公園があり、東海道標 水口宿が立っている。
そこからほんの100m程に「冠木門」が置かれています。ここが水口宿の東見付(東入口)跡です。
ここから水口宿になります
東見付を過ぎると道筋はかなり狭くなり、その先の歩道橋のある交差点を渡り、右へ大きくカーブする。三叉路の左に本陣跡の案内板がたっている。次の三叉路には高札場跡があった。

 

冠木門 東見付(東入口)跡

 

案内には本陣は鵜飼伝左ヱ門が営んでいたこと、大きさは普通の家の三倍の大きさだったこと、そして明治2年に明治天皇が宿泊されたのを最後に本陣の役割を終え、その後撤去されたことが記されています。

 

高札場跡の三叉路は左へ行き、次の三叉路は右に行くと問屋場跡の標石がおかれている。その前に和菓子屋があり、「忍者最中」が売られていた。ここ水口は甲賀忍者の里です

本町通りをまっすぐ進むと、近江鉄道(略して「近鉄」)の踏切があり、左に水口石橋駅のホームが見える

 

宿内の光景

 

忍者最中 が売られている「御菓子処一味屋」

 

踏切を渡って200m行った信用金庫の前の丁字路を右に曲がり、さらに100m先で左に曲がり、心光寺の前を通り300m先で左に曲がり、また100m先のクリーニング店前の分岐を右に曲がる。城下町特有の鉤型の道です。

この最後の曲がり角に水口石がある。

その先に百間長屋跡の案内板がある。この辺りは水口城の城下町で下級武士が百間(180m)の棟割長屋に住んでいたとのことです。

 

水口石

東海道に面した小阪町に伝えられる大石で、「力石とも呼ばれ江戸時代の浮世絵師国芳が錦絵の題材にもしている」と石の前の説明書きにある。 

 

百間長屋 

 

突き当り丁字路の右に五十鈴神社があり、その角に少し土が盛られ林口の一里塚跡と書かれた標石があった。

ここを左に行くと、すぐに信号交差点に出る。この信号交差点あたりに東海道の西側入口の「西見付」があったと思われますが表示はありません。

 

そしてこの場所で水口宿は終わります。

 

林口の一里塚跡

日本橋から113番目(約444km)、京三条大橋からは12番目(約49km地点)の一里塚です。

 

 

水口宿西見附跡----美冨久酒造----米新楼----火の見櫓----東海道の案内標木ー----泉の一里塚跡----横田の渡しの跡

 

 

水口宿西見附跡を後にして石部宿へと向かう。

 

三叉路辺りに美冨久酒造がある。このあたりは江戸時代は北脇縄手と呼ばれていたそうです。

当時、伊勢大路とも呼ばれていた道は曲がりくねっていたのですが、江戸時代に東海道を整備する時に見通しが効くようにほぼ一直線の道筋にして、道の両脇の土手に松並木を植えました。この辺りから東海道十三渡しの一つで野洲川(横田川)の横田の渡しまでの約3.5キロの道筋は畑の中を貫く一本道のことです。

 

真っ直ぐな道を行くと右側に、米新楼という趣のある料亭がありました。調べてみましたがその状況は、分かりませんでした。

 

美冨久酒造  大正6年(1917)創業です。「山廃仕込」という酒造の伝統技法を受け継ぐ醸造元です

 

米新楼という趣のある料亭

 

真っ直ぐ進むと柏木公民館があり、その公民館前の広場にが一つ置かれています。その櫓には梯子が付けられ、丁髷姿の一人の男が梯子を登っています。櫓の上には半鐘らしきものが吊り下げられていた。火の見櫓かもしれません。

 

 

松並木が続く中を行くと三叉路の左手に橋が見えて来る。橋の手前に「東海道の案内標木」があるので、ここで左手に進み、泉川に架かる「舞込橋」渡ると、右側に「日吉神社御旅所」の石柱があり、その先に土が盛られた「泉の一里塚跡」が置かれています

 

東海道の案内標木 水口宿 横田渡 と書かれています。

 

泉の一里塚跡 (江戸より114番目)

 

その先で小さな川を渡り、少し左にカーブをすると冠木門と巨大な常夜燈が置かれている。常夜燈の向こう側には野洲川が流れ、街道時代には船による渡しが行われていた「横田の渡しの跡」です。

 

「横田の渡し」は「東海道十三渡し」のひとつで、常夜燈は文政五年(1822)に建立されている。常夜燈は万人講中のもので、普段は土橋、水かさが増した場合は舟渡しを行っていた。

 

 

横田渡跡の常夜燈

高さ10.5m、笠石は2.7m四方、囲いは7mの玉垣で築かれているもので、対岸からも、渡し舟の上からもこの常夜燈は大きく目立つ存在だったのでしょう

 

 

横田橋----微妙大師萬里小路藤房卿御墓所の石柱----東海道の木標----大沙トンネル----弘法杉----「夏見の里」の解説板----盛福寺----夏見一里塚跡----由良谷川トンネル----北島酒造

 

 

現在は、野洲川(横田川)を渡る渡しが無いので1劼曚媛捨の横田橋を渡ることになる。

このために国道1号に合流してから横田橋を渡ることになる。橋を渡りきると左に階段があるのでそこを下る。この正面がJR草津線の三雲駅です。

駅には行かずに右に曲がるが、この角に「微妙大師萬里小路藤房卿御墓所」、左側に「妙感寺従是二十二丁」と書かれた石柱が置かれていた。

道なりに進み、草津線の踏切を渡ると右側に東海道の木標が置かれている。

 

萬里小路藤房は鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱出に従ったが、 その後、出家し妙心寺の二代目住職になったという人物です。ここから南西22丁にある妙感寺は藤房が晩年に過ごしたところです。

 

 

旧街道を進んで行くと、大沙トンネルにさしかかります。なんとこのトンネルの上には川が流れています。川の名前は「大沙川」です。

 

大沙川は上流から運ばれた土砂が堆積して川底が上がり、川が家や田畑よりも高くなったところを川の氾濫を防ぐために土手を高く築き直した結果、川がこのように高いところを流れるようになったとの事です。このような川を天井川といい滋賀県東部に多く見られます。

 

トンネルを抜けると左側の囲いの中に「弘法大師錫杖跡」の碑が置かれてた。そして頭上の大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年の杉がある。この大杉は弘法杉、または二本杉と呼ばれているそうです。

一説によれば弘法大師(空海)が、この場所で昼食をとる際、杉の枝を折って箸の代わりとして使い、食後、2本の枝を土に突きたてた後、箸(木の枝〉が成長して二本の杉の大木になったと伝わっています。

 

大沙トンネル このトンネルの上に川が流れています。

 

左端に見える石柱が、「弘法大師錫杖跡」でその左上に「弘法杉」があります。

 

トンネルを抜けると、道の左手の小高い山の中腹に気になる巨大な岩が遠目でも見ることができます。

これは、「八丈岩」と言われています。八丈とは一丈は3.08mですから、およそ24mの高さの大岩です。

 

この山の中腹に戦国時代の城「三雲城」があったそうです。この城は長享2年(1488)に安土の観音寺城主であった佐々木六角高頼が逃げ込みのための本城として、三雲典膳に命じて築かせたものでしたが、元亀元年(1570)に信長の家臣の佐久間信盛の攻撃により、落城そして廃城となってしまいました。城跡に残された巨大な岩は「見張り台」として使われていたと言われ、その大きさから「八丈岩」と名付けられています。

 

 

三雲城概略図

 

300m程先の交差点の手前に「夏見の里」の解説板が立っている。

この辺りは、「立場」が置かれ、名物の心太(ところてん)や名酒桜川が茶碗酒として計り売りされている店が並んでいたそうです。

左にある盛福寺の前を過ぎて暫らくすると日本橋から115番目の一里塚である夏見一里塚跡の案内板が立っている。(案内板だけ)

一里塚の先に、またトンネルがあります。これも大沙トンネルと同じ、天井川の由良谷川トンネルです。

トンネルから750m程行くと左側に文化2年創業という老舗の「北島酒造」があります。北島酒造では店内に湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれているそうです。

 

北島酒造

 

 

家棟川隧道扁額----愍念寺、光林寺、養林寺----落合川

 

 

北島酒造の先には、家棟川(やのむねかわ)があり、そこに家棟川隧道扁額の説明板が立っていた。

それによると、かっては家棟川も天井川でこの下にトンネルが掘られていたそうです。

この先落合川まで街道から少し奥まったところにお寺が沢山ありました。右手に愍念寺、光林寺、養林寺、左手には八島寺などです。

 

この先の落合川を渡るといよいよ石部宿になります。

 

 

 

(つづく)<石部宿(いしべしゅく)から草津宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=194

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


旧東海道10 (関から京三条大橋)−3 <土山宿(つちやましゅく)>

<土山宿(つちやましゅく)から水口宿へ>(11.8km)

 

(前)<坂下宿(さかのしたしゅく)から土山宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=190

 

土山宿は、東海道の49番目の宿駅で、上方へ向かう旅人が、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場である。
東の田村川橋から西の松尾川(野州川)までの22町55間(約2.5km)の細長い宿であった。
当時は、小田原宿や三島宿と同様に賑わっていた。現在も本陣や旅籠の並ぶ町並みはきれいに整備されて残され、宿場町の面影を残している。



広重  春の雨
雨の中、笠を目深にかぶり、合羽を羽織った大名行列の一行が 背を丸めながら、増水した田村川の板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いています。

海道橋(田村川橋)----田村神社----道の駅・あいの土山----東海道道標----地蔵堂----扇屋伝承文化館----土山一里塚跡----旅籠車屋跡----来見橋----白川神社----旅籠群----二階屋本陣跡----問屋場跡----土山宿本陣跡----土山宿大黒屋本陣跡碑----追分道標

 



田村川橋は、江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋であったが、今は復元されて海道橋となっている。

この橋を渡り、田村神社の境内に入ると右側に田村神社の二の鳥居常夜燈狛犬が並んで立っている。側には高札場跡の石柱もたっている。
ここを直角に曲がり国道1号にむかいます。歩道橋を渡り渡ると「道の駅・あいの土山」です。

チョット一休みします。



海道橋を渡ってすぐの鳥居


田村神社  国道1号に面して立っている鳥居
祭神は坂上田村麻呂。平安時代初期の建立。社殿は鈴鹿峠から移されたものである。 田村麻呂の、鈴鹿峠の鬼退治の伝説にまつわる「厄よけの神」としても有名。この鬼退治が2月18日だったことにちなみ、毎年2月17,18,19日に厄除祭が催されている。

旧東海道は、「道の駅・あいの土山」の建物の裏手に回り込むような道筋となり、東海道道標地蔵堂があります。
真っ直ぐ進むと、右側に商家然とした赤のれんの掛っている建物が見えてきた。扇や櫛を扱っていた「扇屋」です。現在は扇屋伝承文化館の名で土山を訪れる観光客のための休憩施設として利用されています

その先の民家の前に、日本橋から110番目の「土山一里塚跡」の標柱がある。 塚の規模はおよそ高さ2.5m、円周12mの大きさであった と伝えられています。



地蔵堂


扇屋伝承文化館
館内では地元の工芸品の展示や販売が行われているそうです。

「土山一里塚跡」を過ぎると、街道の左側に「旅籠 車屋跡」の石柱、そしてその先には立派な建物のお屋敷があった。

さらに進み小さな川に架かっている来見橋(くるみはし)を渡るとすぐ左に南土山の鎮守として崇められている白川神社の大きな鳥居がある。


この神社は、牛頭天王社又は祇園社とも呼ばれ、毎年7月の第3日曜日に「土山祇園祭花笠神事」が執り行われています。この神事は江戸時代の承応3年(1654)から続いているもので、南土山町14地区で奉納された花笠から花を奪い合う「花奪い行事」です



今でも残されているりっぱな屋敷


来見橋

白川神社から道は左にカーブして、道の両側に旅籠の石柱が沢山置かれています。柏屋大工屋釣瓶平野屋、向かいには井筒屋などがつづく。
中でも井筒屋は、森白仙終焉の地 と、石柱に彫られていた。

直ぐ先に二階屋本陣跡の石柱。またその先に問屋場、成道学校跡と同じ石柱に彫られていた。これは、明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。ということだそうです。

右手に立派な家が現れます。これは、土山宿本陣跡の建物でした。



森白仙終焉の地 井筒屋跡
森白仙は、文豪森鴎外の祖父で、文久元年(1861)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死しました。森家は岩見国津和野藩亀井家の典医として代々仕える家柄で、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師でした。


問屋場、成道学校跡の石柱


土山宿本陣跡
屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。


土山宿本陣跡からほんの150m程の所に、「土山宿大黒屋本陣跡碑」「土山宿問屋場跡碑」と少し離れた場所に「高札場跡碑」が置かれていた。
大黒屋は、旅籠屋として繁盛し土山本陣の補佐宿となった。規模は、土山宿本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったようです。

これにより土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によると、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏(忍者?)と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたそうだ。

道はここで大きく右へと曲がってやがて国道1号にぶつかる。
国道を横断すると、道の左端に二基の道標が立っていた。「東海道」と「御代参街道(ごだいさんかいどう)」との追分です。

この道標の右に進む小路が旧御代参街道で、左斜めに進む道が旧東海道です。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還です。

江戸時代の東海道は御代参街道(ごだいさん)の道標の所で、進路を北西に変えて進み、野洲川を舟渡しで渡っていたのですが、現在は渡しも橋もありません。

そこで現在の土山宿はここまでになります


土山宿大黒屋本陣跡碑と土山宿問屋場跡碑


追分道標 小さな方の道標には「右 北国たか街道 ひの八まんみち 」と刻まれています。
北国たか街道(御代参街道)とは、ここから多賀大社へ行く近道で、またそれを経由し北国街道や中山道にも通じ、多賀大社にお参りする人々や近江商人などが往行した道の事を言っています。


歌声橋----滝樹神社入口----地安禅寺----垂水頓宮御殿跡----諏訪神社----長泉寺----大野市場一里塚跡----東海道反野畷----長園寺----旅籠丸屋跡----煉瓦作りの煙突の家----若王寺----旅籠東屋跡

 

 



国道を横断して、一旦北西の道に入るが、150m程で急カーブを国道1号へ戻りますが、このまま先に行くのが本来の旧東海道だった道です。

戻ってすぐ先を左の細い道に入り、道なりに歩くと車道の白川橋の南にある歌声橋野洲川を渡る。その先で右手からくる道と合流する地点にさしかかるが、この右からくる道筋がかつての東海道なのです

その先に「滝樹(たぎ)神社入口 従是四丁(約450m)」という表示が置かれている。其の200m先にも滝樹神社の鳥居があった。

さらに200m程いくと右側に地安禅寺(ちあんぜんじ)の楼門がある。



滝樹神社の鳥居


地安禅寺の楼門
地安寺には、御水尾法皇の御影御位牌が安置されています。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16才の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、34才で上皇になられた。


300m程先の左側の民家の一角に垂水頓宮御殿跡と書かれた石柱が立っていた。
またその先の左に諏訪神社があり、右側に延命地蔵尊が祀られている長泉寺がある。
さらに200mほど行くと道の右側の角に江戸から111番目の「一里塚跡」の石柱が立っていた。これは、大野市場一里塚跡(おおのいちばいちりつかあと)です。
その先の川は、大日川(堀切川)で、これを渡ると左に東海道反野畷の石柱があった。



垂水頓宮御殿跡
説明板には次のように書かれています。
伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。 土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。


大野市場一里塚跡
土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先であったが現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模はおよそ高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。


東海道反野畷 大日川(堀切川)掘割碑
大日川は江戸時代には市場村と大野村の境をなす川でした。頓宮山を源流とした川は平坦部で流れが広がり、いったん大雨が降ると市場村と大野村の洪水被害が甚大だったといいます。大野村はその対策として、江戸時代の元禄12年(1699)に排水路を掘割し、野洲川に流すことを計画し、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し元禄16年(1703)に完成しました。

左に野洲川を見ながら歩くと、右に大野小学校があり、その先に民家の前に旅籠松坂屋の石柱があり、その隣に「長園寺」の石柱が立っている、その先にも旅籠丸屋跡の石柱が置かれていた。この辺りは、土山宿水口宿の中間にあたるので、間宿になっていたのでしょう。

この辺りで屋根の上に「煙り出し」(煙突))のある独特の建物が数件みられる。左側の煉瓦作りの煙突の家は造り酒屋で、右側の民家の脇に「明治天皇御聖蹟碑」がある。

この先は国道1号線を横断して、浄土宗若王寺の石柱前を右手に分岐する旧街道の細い道筋に入ると、旧徳原村の小さな集落が始まります。
集落を進んで行くと道筋の左側の藁葺屋根の家の前に旅籠 東屋跡の石柱が置かれていた。街道で藁葺屋根の家は初めて見たような気がします。



煉瓦作りの煙突の家


藁葺屋根の 旅籠 東屋跡

 

 

旅籠東屋跡----大野西の信号----東海道分間延絵図(今郷)----今在家一里塚跡----(浄土寺)----小里村の高札場跡----宝善寺----岩神社----永福寺---八幡神社

 

 

茅葺屋根の旅籠を後にして国道1号と合流する大野西の信号を横断して左側の県道に入り、稲川を渡ると甲賀市水口町今郷になる。

 

大野西交差点

 

直ぐに右の細い道に入り、緩やかな坂を上って行くと右手に「東海道分間延絵図」を張った説明板がある。現在の今郷の様子が書かれている。
坂が平坦になったころ浄土寺の手前に「今在家(いまざいけ)一里塚跡」の石柱が置かれていた。
本来の旧東海道は真っ直ぐに行くそうだが、浄土寺の山門前を通り旧東海道に戻った。合流点にある三叉路の角に小里村の高札場跡があった。

 

東海道分間延絵図(今郷)

 

今在家一里塚跡

日本橋から112番目(約440km)、京三条大橋からは13番目(約54km地点)の一里塚跡です。

 

三叉路を少し行き右手に分岐する狭い道筋に入って行くと今郷集落になる。宝善寺の前を通り過ぎ県道(旧1号)に再び合流する。そこにあるのが岩神社です。
そこからまたまた右の道に入って行く。しばらくすると街道から少し奥まったところに山門を構える「永福寺」にさしかかる。この辺りが旧新城村の中心だったようだ。

 

宝善寺

 

永福寺

阿弥陀如来を中心とする観音勢至地蔵の四尊を描く来迎図を寺宝に持っているそうで、この来迎図は昭和59年に水口町(現甲賀市)の文化財に指定されました。

 

永福寺の200m程先の右側に「八幡神社」の石柱があり、観音堂と絵馬についての説明板が立っている。
この神社の観音堂には、馬頭観音が祀られていて、この馬頭観音は元々は最澄が創建した「天水寺」の本尊だったそうです。


水口宿の旅籠や宿役人等が奉納したという2百余りの小絵馬も残っているそうです。

 

この先の山川橋を渡ると、次の宿場水口宿になります

 


 

(つづく)<水口宿(みなくちしゅく)から石部宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=193

 

 

 

 

 

 


旧東海道10 (関から京三条大橋)-2 <坂下宿(さかのしたしゅく)>

<坂下宿(さかのしたしゅく)から土山宿へ>(10.0km)

 

 

坂下宿は東海道48番目の宿場で、鈴鹿峠の登り口にあり、峠を越えようとする旅人の多くがここ坂下宿に泊まることを想定して、旅籠が多く3軒に1軒が旅籠だったそうです。
しかし明治以降、関西鉄道の開通で、人の流れが変ったことで徐々に衰退して、現在では数十件の民家があるだけとなり史跡石柱が建っているだけです。



広重 「坂之下宿」 中央に筆捨山が描かれている

河原谷橋----松屋本陣跡、大竹屋本陣跡、梅屋本陣跡----法安寺----岩家十一面観世音菩薩の石碑---(山道)---片山神社の石柱----片山神社----鈴鹿峠・国境の標石----万人講常夜燈----小さな公園

 

 


 

小さな河原谷橋を渡り、坂下宿にはいる。
淡々と1kmほど歩いていくと、道の左側に松屋本陣跡大竹屋本陣跡梅屋本陣跡の碑が続く。

大竹屋は「街道一の大家」と称えられたほどで、旅人は一度は泊まってみたいと願う宿であったという

道の反対側には法安寺(ほうあんじ)がある。ここの玄関は松屋本陣から移築したもので、これは坂下宿で当時を偲ぶ唯一の遺構だそうです。

この辺りまでが坂下宿で、ここを出ると山道が多くなります。



大竹屋本陣跡 石柱


法安寺 山門の下には「南無阿弥陀佛」という大きな石碑と「西国三十三所順拝写」と書かれた石碑が置かれています。

500mほど真っ直ぐ西へ歩くと、ちょうど1号線と接触する道の右側に岩家十一面観世音菩薩の石碑がある。その左脇に閉じられている鉄製の門があります。その奥には、岩屋観音があるようです。

これは、万治年間(1658-1660)に実参(じっさん)和尚が巨岩に穴を穿ち阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵を安置したというもので、御堂の横に清滝の水が落ち別名を清滝観音とも言います。


 
伊勢参宮名所図会には「此宿の本陣家広くして世に名残し(中略)海道第一の大家也」と書かれています。
この絵の右上に「崖下に観音堂があり、その脇に滝が描かれています」が、これが岩屋観音(別名 清滝の観音)です。

側にある道標に従い山道に入る。結構険しい道を登って行く。
暫らくすると国道に出会うので鈴鹿峠方面に少し行くと、大きな片山神社の石柱が立っている。



道標  旧東海道鈴鹿峠 1.5kmと書いてある


 険しい山道


片山神社の石柱

片山神社の参道は、緩やかな上り坂で左右は杉木立で、道の左側には清流が流れています。実はこの辺りは江戸時代初期に「坂下宿」があった所で、「古町」と呼ばれているそうです。
慶安3年(1650)九月の大洪水でここにあった宿場が壊滅的な被害に遭い、 山川、田畑、民家が全て頽廃したため、翌年、十町(1キロ余)下に移転した。と案内板に書いてありました。

参道の正面に、片山神社の石柱と鳥居が見えてきます。



片山神社(かたやまじんじゃ)
鈴鹿大明神、鈴鹿権現、鈴鹿明神と呼ばれ、坂上田村麻呂の山賊退治にまつわる女性である鈴鹿御前を祀ったといわれている。水害や火事の神様である。神社の鳥居の近くに鈴鹿流薙刀術発祥の地とかかれた石碑が立っている。

この神社から「八丁二十七曲がり」と呼ばれた鈴鹿峠越えが始まります。
右に入り山道風の急坂道を鈴鹿峠をめざして登ります。途中に鈴鹿峠を行き来する馬の水飲み場跡があった。
少し平坦な道が現れると、そこがもう鈴鹿峠であった。
そこには、伊勢の国と近江の国の国境の標石が置かれています。

鈴鹿峠(すずかとうげ)
鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886)に開通した。 八町二十七曲(はっちょうにじゅうななまがり)といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、古代から山賊が多いことでも有名で、峠には山賊(鬼)を退治したという坂上田村麻呂を祀る田村神社跡がある平安時代の今昔物語集に水銀(みずがね)商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子(たてえぼし)という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。




国境の標石  ここからいよいよ滋賀県(近江国)に入ります、

少し行くと巨大な石積みの常夜燈が建っていて、トイレやベンチのある休憩所になっています。この常夜燈は万人講常夜燈との標識がたっていました。
ここからは、下り道です。



万人講常夜燈(まんにんこうじょうやとう)
重さ38トン、高さは5.44mもある常夜燈です。270年前に四国金比羅神社の講中が建てたものですが、旧山中村高畑山天ケ谷産の粗削りの大きな自然石をそのまま使って、山中村を始め、坂下宿、甲賀谷の3000人が結集して造ったものと伝えられています。
東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜燈は、往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方の四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈ったという


峠道を下って行くと、鈴鹿トンネルを抜けて来た国道1号線が道の右下に走っている。峠道はこの先で国号1号と合流するが、歩道のある反対側に渡るには横断歩道がないので地下道で渡る。この辺りで後ろを振り返ると、鈴鹿峠の万人講常夜燈が見える。
そのまま国道をひたすら歩くと、右に入る道が現れるのでそちらに入りそのまま進むとT字路になるので、左に行くと、小さな公園があり「東海道 鈴鹿山中」の石碑と石灯籠が建っています。



地蔵大菩薩堂----山中一里塚公園----猪鼻村----浄福寺----旅籠中屋跡----白川神社御旅所----蟹坂古戦場跡----海道橋

 



公園から再び国道を離れ右の道に入ると、少し先の右側に地蔵大菩薩堂があります。
前方にある新名神高速道路の高架橋の下をくぐるとまた国道1号と合流します。ここは「山中一里塚公園」で、一里塚碑櫟野観音道(いちのかんのんみち)道標(追分になる)がある。

櫟野観音道とは、「山中地区の旧東海道沿いから南西に伸びる道は、古くから東海道と神(かみ)村(甲賀町大字神)・櫟野(いちの)村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道(おおはらみち)とも呼ばれていた。」そうです。



地蔵大菩薩堂


山中一里塚公園の道標
表には「いちのかんのんみち 」と刻まれて、側面には櫟野寺(らくやじ)本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白(きょはく)の「盡十方(つくすとも)世にはえぬきや大悲心(だいひしん)」という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。

国道を進み右側に民家が見え始めると猪鼻交差点で、江戸時代は猪鼻村だったところです。
交差点から少し戻るようにして回り込んでいくと、右側に「浄福寺」があります。その門前には大高源吾の句碑が置かれています。大高源吾は赤穂浪士の一人で、俳号を子葉と名乗っていました。「いの花や 早稲のまもるる 山おろし

その先に「旅籠中屋跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」がありますが、明治天皇が立ち寄られ休憩されたようです。この辺りは、かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だったようです。

その先のS字のカーブの急坂を上ると再び国道1号に合流します。



猪鼻村


浄福寺  門前には大高源吾の句碑が置かれている。

国道に戻り500m程の右に鳥居がある。これは、白川神社で、「御旅所」の石柱と小さな社殿が二つあります。ここから再び右の道にはいる。ここには親切に土山町蟹ヶ坂(かにがさか)の案内板がおかれていた。
案内に従い田村神社を通り、道の駅「あいの土山」に向かう。

道はこの先で金属工場の敷地内を通るように進んでいくと右側に大小の碑があり、小さい石柱が蟹坂古戦場跡の石碑です。



白川神社


蟹坂古戦場跡(かにさかこせんじょうあと)
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍政を盛りかえし、さらに北伊勢の軍政を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍政五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。


間もなく田村川の袂にさしかかり、ここに架かる街道橋を渡り、田村神社を過ぎると土山宿になります


街道橋(かいどうばし)
江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋を復元した橋。 往時の橋は、巾二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)。高さ0.3mの低い欄干が付いた当時としては画期的な橋であった。 安藤広重の「土山宿・春の雨」は、この橋を渡る大名行列の様子を東側から描いたものです。 橋の右の方には、橋番所、橋のたもとには高札が架かっていたといわれている。



(つづく)<土山宿(つちやましゅく)から水口宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=191
 


旧東海道10 (関から京三条大橋)-1 <関宿(せきしゅく)>


2019年3月21日(木曜日)から3月23日(土曜日) 

旧東海道歩きの10回目で、JR関駅から京三条大橋まで 関宿、坂下宿、土山宿、水口宿、石部宿、草津宿、大津宿を歩きついに旧東海道のゴール京三条大橋に着きました。

関宿から草津宿

距離 55.3km 高低差 290m  14時間48分

草津宿から京三条大橋

距離 28.9km 高低差 132m  7時間49分

 


<関宿から坂下宿へ>(5.3km)

 

(前)<亀山宿(かめやましゅく)から関宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=188

関宿は47番目の宿場で、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄した宿場です。
の名の由来は、古代三関の一つ「鈴鹿の関」が置かれていた事によるものだそうです。
宿は江戸方より木崎新所の三町からなり、関三町(せきのさんちょう)と称されました。
関の特産は火縄です。新所を中心に数十軒の火縄屋があったそうです。



広重 関宿の景


東追分(伊勢神宮の大鳥居・関一里塚跡の石碑)----御馳走場----問屋場跡---川北本陣跡----伊藤本陣跡----福蔵寺----地蔵院----関西山観音院----西の追分

 



関宿の江戸口になる東追分には伊勢神宮の大鳥居がある。この大鳥居は東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に伊勢神宮に向かって遙拝するためのものです。
鳥居の左側の小高いところに関一里塚跡の石碑がひそかに建っています。

関宿はこの鳥居から西の追分まで、東西に1800mの帯状に伸びていた宿場町で、東海道と伊勢詣での旅人が向う伊勢別街道との追分(分岐点)でもありました。



右に伊勢神宮の大鳥居・左に常夜燈・中央奥に小さく見える石柱が一里塚跡です。


東追分から見た関宿の街並み 
宿内の街道には電信柱がまったくなく、今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観です。

真っ直ぐな道をすすんでゆくと右手コーナーの小さな広場に御馳走場と彫られた石柱ががある。
これは、関所に出入りする大名行列の一行を、宿役人が衣服を改めて出迎えたり見送ってたりした場所である。また大名行列もここから毛槍をふりたてて本陣まで行列したとの事。関宿には4箇所の御馳走場があったそうです。
御馳走場の前には「開雲楼」と「松鶴楼」という関を代表する芸妓置屋の建物が残されています。

中町に入ると問屋場跡本陣跡も続き、この宿の中心であることがわかります。



川北本陣跡(かわきたほんじんあと)
江戸時代初期から関で本陣をつとめていた川北家の跡で、当時をしのぶ碑が建っている。川北本陣の門は、延命寺の山門として移設されている


伊藤本陣
伊藤本陣は川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。間口11間余、建坪69坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。

郵便局の先の路地を右に曲がったところに福蔵寺がある。ここは、織田信長の3男の織田信孝の菩提寺であり、仇討ちで有名な関の小萬の墓がある。

この先が広場になっていて奥に立派なお堂が建っている。これは、地蔵院で、「関地蔵」が祀られている。地蔵院本堂は、元禄13年(1700)、将軍綱吉が母、桂昌院のため建立したものです。



福蔵寺   この寺の裏門は、荻屋脇本陣から移築したものです。


地蔵院
天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる、日本最古の地蔵菩薩。 境内の本堂、愛染道、鐘楼は国指定重要文化財。

東海道は地蔵院のところで緩やかにカーブしてここから新所町となる。400m程行くと、右手に関西山観音院がある。ここは関宿の守り仏であり、後には西国三十三ヶ所の霊場となった。

観音院をすぎると、まもなく国道1号と合流するが、その手前の三角広場に西の追分があります。
西の追分は東海道大和・伊賀街道との分岐点です。京都方面へは、鈴鹿峠を越えて19里半(78辧棒茲坂下宿に向かいます。また、大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良に至ります。



観音院
説明板によると「古くは関西山福聚寺といい城山の西方にありましたが、戦国末期に焼失し、寛文年間(1661〜1672)に現在地に移転しお堂を建て、関西山観音院と名称を変えました」とあった。


西の追分 石柱には「ひだりハいかやまとみち」と書かれている


現在の追分標識です。(新所交差点) 甲賀と伊賀の分岐です。


新所交差点---転び石----市瀬橋----西願寺----筆捨山の案内板----弁天橋

 



西の追分を出てすぐそこにある新所交差点の先で国道1号線に合流する。大和街道は南に、旧東海道は一号線をまっすぐに進む。 国道沿いに進むと駐車場内に転び石(ころびいし)の木柱があった。そこには、

直径2mの石で「弁慶ころがし」とも言われ、山の上から転げ落ちてきて、夜な夜な「山にもどりたい」と、うなり声を出して人びとを恐れさせたが、弘法大師の供養によっておとなしくなったとの伝説が残っています」。と書いてあった。

やがて1号線と分かれて鈴鹿川沿いに右の細い道に進み、鈴鹿川にかかる市瀬橋を渡り市瀬集落へ入る。道の両側には古い家が並んでいます。
集落は中程で国道1号に分断される。その先に、西願寺(さいがんじ)がある。



市瀬橋の下を流れる鈴鹿川


西願寺
浄土宗本願寺派の寺で、山門前には常夜燈が建っている。

このさきで再び国道1号に合流し、国道を800mほど進むと街道は左へとカーブしていきます。その正面に三角おにぎりのような姿をした山が見えてきます。これが有名な「筆捨山(ふですてやま)」です。そこに案内板が置かれていました。


正面に見えるのが筆捨山です
案内板には、東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する、標高289mの山である。
もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため描き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。
浮世絵での坂下宿は、ほとんどがこの筆捨山を描いている。
と書かれていました。


国道を行き鈴鹿川に架かる弁天橋を渡って先を右にまがり沓掛に向かって行く。

超泉寺----鈴鹿馬子唄会館----坂下尋常高等小学校の校舎----河原谷橋

 



沓掛の集落に入ると右側に超泉寺があり、旅人が草鞋を掛けて旅の安全を祈願した寺かもしれません。
このあたりから穏やかな上り坂になり500m程行くと道は三叉路になり、東海道は右側の狭い急な坂を登っていきます。そこに鈴鹿馬子唄会館がある。ここには鈴鹿峠を発祥の地とする鈴鹿馬子唄についての多数の資料が展示されているそうです。

右側には昔懐かしい造りの建物があり、思わず中をのぞきたくなりました。この建物は昭和13年(1938)坂下尋常高等小学校の校舎として建てられたもので、昭和54年(1979)に廃校となり、現在は年間を通じて鈴鹿峠自然の家と名付けられ、宿泊研修施設として活用されています。

1kmほど歩くと小さな川に架かる河原谷橋にさしかかります。この川が沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると48番目の坂下宿(さかのしたしゅく)に入ります。



超泉寺


坂下尋常高等小学校(鈴鹿峠自然の家)



(つづく)<坂下宿(さかのしたしゅく)から土山宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=190


旧東海道9 (四日市から関)-4 <亀山宿(かめやましゅく)>

<亀山宿(かめやましゅく)から関宿へ>(5.1km)

 

(前)<庄野宿(しょうのしゅく)から亀山宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=187

 

亀山宿は、江戸日本橋より46番目の宿。
江戸中期以後は、石川氏6万石の城下町であった。しかし、6万石の城下町としては町の規模が小さく、宿場町としてもそれほど大きくはなかった。
しかも藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したという



広重 雪晴(ゆきばれ) 大名行列が雪の中、急な京口坂を登っていく風景が描かれています。絵の右上には石垣と亀山城の櫓らしきものが見えます。



江戸口門跡----福泉寺----樋口本陣跡の立札----亀山城大手門跡と高札場跡----遍照寺----亀山城西之丸外堀遺構----京口門跡

 



旧東海道を道なりに行くと丁字路になりその左隅に、江戸口門跡の説明板が立っている。
そこには、「延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。」と書かれていた。

江戸口門を入ると亀山宿に入ります。

道は直角に右に曲がり、交差点を過ぎると右手に福泉寺の山門があり、そこから150mほどさきの商店街の道の左に樋口本陣跡の立札がある。




福泉寺山門
亀山市内に残る数少ない寺院楼門建築の遺構として貴重なことから平成8年に亀山市指定文化財に指定されています。


樋口本陣跡の立札

旧東海道は江ヶ室交番前交差点を左折して狭い道を下って行く。この角に亀山城大手門跡高札場跡の説明板がある。

東海道筋は亀山城を大きく迂回するため、鉤の手に曲がるようになっている。坂を下ると左側に遍照寺山門がある。

道が大きく左にカーブするあたりに古い家が残って宿場町らしい雰囲気が残っています。その先で道は302号線に分断されますが302号線を渡ると少し小高いところが小さな公園になっています。
ここから亀山城の多門櫓を望むことが出来ます。



遍照寺山門
本堂入口部分は亀山城の二の丸御殿の玄関部分を移築したものと言われています。




旧東海道


亀山城の石垣と多門櫓
今回は、亀山城には寄らなかったのですが、資料には以下のように書かれていました。
伊勢亀山城は、文永二年(1265)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、この城については、『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記されている。寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。亀山城の別名については唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城」と記されている。城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家11代で明治維新を迎えることとなる。明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、塀の一部が残されているに過ぎない。

狭い道を進むと西町に入る。此処にも古い家並が残っている。その先丁字路になり右折する。その先で今度は左折する。その角に亀山城西之丸外堀遺構がある。東海道と接する外堀の一部分を保存しています。
そのすぐ先が亀山宿の西の出入り口である京口門跡がありここにも詳しい説明があった。

亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。『九々五集』によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文12年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城総構の城門として位置づけられ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。大正3年、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門と謡われるほどであった。 (広重の雪晴に描かれたのがこの場所です)






照光寺----野村一里塚----打田権四郎昌克旧宅跡----布気皇館太神社

 



京口御門を後にして達(竜)川を渡ると右手に照光寺がある。この辺りは、 宿場を抜けたのですが、まだ街道沿いの様子は宿内にいるような趣のある家が点在しています。
この辺りには寺が多く存在している。600m程歩くと前方右手前方に立派な一里塚が現れます。江戸から数えて105番目の野村一里塚です。

さらに歩いて行くとの左側の道路際に、史跡 亀山藩大庄屋 打田権四郎昌克旧宅跡の石柱がある。
そこには、「江戸時代初期に近江国から野尻村に土着したという打田家は、亀山藩主本多家の時に代官を任ぜられ、後に大庄屋を務めました。権四郎昌克は、亀山領に関する記録集「九々五集」を編纂し」と書かれていました。

その先で右に曲がる(道案内がある)と、左側の杜の中に布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があり、街道に面して石灯籠と鳥居が置かれています。

この先は、国道565号とJR関西本線を歩道橋で線路を跨いで行きます。





野村一里塚
1604(慶長9)年徳川家康の命で亀山城主の関一政が築造したもので、一辺が約9mの石垣で囲まれた約3m高さのに盛土の上に、周り6m、高さが33mの樹齢400年という椋の巨木が立っている。県下に一里塚で現存するのはここだけで、国指定史跡となっている。


布気皇館太神社
ともと天照大神、豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬし)の三神が祭神だったのですが、明治の合祀で二十三柱を祀るようになりました。(神々のオールキャストでなんでも叶うのでしょうか?)


大岡寺畷----小野川橋----関宿の看板----関の小萬のもたれ松----伊勢神宮の大鳥居

 



JR関西本線の線路を越えて700mほど進むと、大岡寺畷(たいこうじなわて)と書いた木標が置かれています。
そこには「畷とはまっすぐな長い道のことで、大岡寺畷は鈴鹿川の北堤で1946間(約3.5)にわたる東海道一の長い畷だったと言われています。江戸時代には18町(約2辧砲砲盖擇崗省駄擇猟樟道だった大岡寺、里謡に「わしの思いは太岡寺 ほかに木(気)はない 松(待つ)ばかり」と謡われたというところです。
明治になって枯松の跡へ桜を植えたが、その桜もほとんど枯れてしまった。 芭蕉もこの長い畷を旅して「から風の大岡寺縄手ふき通し、連(つれ)もちからもみな坐頭なり」と詠んでいる。
」とある。

真っ直ぐな道を歩き国道25号線の亀山大橋の高架下に行くと両側の壁に、100倍の大きさに拡大された広重の絵パネルが7枚飾られていた。なお先に行き、JR関西本線の踏切を越えると国道1号線に合流する。
直ぐに小野川橋を渡って250mほど行くと右に入る細い道があり、「関宿」と書いた大きな看板が建っていて、左側に「関の小萬のもたれ松」の説明板と最近植えたと思われる松があります。

ここから400mほど歩くと左側に大きな木の鳥居(伊勢神宮の大鳥居)が現れます。ここが関宿の江戸側の入口になります。



関の小萬のもたれ松
  関の小萬とは父の仇討を遂げた女性の名前です。
江戸中期、九州久留米藩士牧等左衛門(まきとうざえもん)の妻は夫の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を生んだ後病没した。小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修行し、天明3年(1783)見事仇敵軍太夫を討つことができた。 この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。


(完)
次ぎ <関宿から坂下宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=189



 


旧東海道9 (四日市から関)-3 <庄野宿(しょうのしゅく)>

<庄野宿(しょうのしゅく)から亀山宿へ>(8.5km)

 

(前)<石薬師市宿(いしやくししゅく)から庄野宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=186

 

 

庄野宿は江戸から45番目の宿場で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠15軒という小さな宿場であった。此処も石薬師宿と同じで四日市宿と亀山宿間が長かったので新設された宿場でした。、
現在の庄野町は鈴鹿川左岸を走る国道1号線とJR関西本線に挟まれたひっそりした町のようだ。



広重 庄野の白雨(雨の中を急ぐ旅人と薮の中の数軒の人家)これは彼の作品の中でも傑作中の傑作と言われ世界的にも高い評価を得ている。

庄野宿案内板----庄野町資料館----問屋場跡----庄野本陣跡碑----高札場跡標識----川俣神社(スダジイの巨木)----庄野宿の石柱

 


十字路を左折すると右角の空地に庄野宿案内板があり、ここが宿入口であることを示している。
先に進むと左に木造の庄野町資料館があり、玄関には「鈴鹿市指定建造物 旧小林住宅」の標識が立っている。
この建物は江戸時代に油問屋を営んだ小林家の跡です。立派な連子格子の建物は屋敷の一部を創建当時の姿に復元したものです。

その先の民家の壁に問屋場跡を表示した案内板がある。案内板によると「問屋場は御伝馬所ともいい、問屋2名、年寄4名、書記(帳付)、馬差各4、5名が半数で交替してつめていました。主な任務は公用書状の継立て、往来者の要望に応じて人足、馬の割振り、助郷村々への人馬の割当、賃銭、会計などがあった」と書いてあった。



庄野町資料館(旧小林住宅)
庄野宿資料館は、庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成10年に開館した。

その先の十字路手前の庄野集会所の右端に庄野本陣跡碑の標柱が建っていて、標柱には「本陣は寛永元年(1624)には沢田家が担当し、 間口十四間一尺、奥行二十一間一尺、二百二十九 坪の家だった。」と記されています。
また隣りには「距津市元標九里拾九町」と書かれた「道路元標」が建っている。この石標は津市元標までの距離を表したものです。

道を横断した右角には高札場跡標識が立っている。
この標識に「高札場は法度、掟書などを書いた「高札」を掲示した場所で、庄屋宅前とか人通りの多い辻など村や宿場ごとに1ヶ所設けられていた。庶民に法令などの趣旨を徹底させるためにあった」と書かれている。

そのまますすむと右側に川俣神社があり、「延喜式内川俣神社」と彫られた大きな石柱と、「天保十五甲辰歳小春」と刻まれてる常夜燈がある。境内の奥には、県指定天然記念物スダジイの巨木が存在感を示しています。
  


川俣神社のスダジイの巨木 ブナ科の常緑樹で、樹齢300年、高さ11m、幹周り6mの古木で、県の天然記念物に指定されています

街道に戻り、少し行くと庄野宿の東の入口にあったのと同じ、庄野宿の石柱が現れる。ここが京側の入口で、ここで庄野宿は終わりです


平野道道標----女人堤防碑----中富田一里塚----式内川俣神社----和泉橋----地福寺----西信寺

 


庄野宿を後にして国道1号を渡り進むと、汲川原町交差点で国道1号と637号線が交わります。ここでも旧東海道筋は637号と国道1号によってズタズタに分断されています。本来の東海道は斜め左へと直進していたのですが、かつての道筋は消滅しています。交差点を渡って左に入り、旧東海道に戻ります。
西に進むと、左側の民家の角には「平野道」の道標があります。(平野は鈴鹿川対岸の平野町のことです)。

その先の右側に山の神碑従是東神戸領石柱があり、道を挟んだ反対側には、女人堤防碑がある。
この碑には「この辺りは安楽川と鈴鹿川の落ち合うところで、たびたび水害があった。人々は水害に悩まされていた為、築堤を神戸藩に申し出たが、南岸の城下町神戸の浸水を恐れ許可がでなかった。強いて行えば打ち首に処せられる。1829(文政2)年頃、苦しみに耐えられなくなった約200人の女性たちは打ち首を覚悟して暗夜を選んで工事を続け、6年の歳月をかけて堤防修築に成功した。女性たちは一旦処刑場に送られたが赦免の早馬で救われてという。」と記されていた。



女人堤防碑の地図


このあたりか?

暫らく道なりに歩くと、川俣神社の入口に中富田一里塚がある。江戸時代にはここから亀山藩領となっていました。

さらに700mほど行くと西富田町になりまた式内川俣神社がある。この辺りには、鈴鹿川に沿って同一名称の川俣神社が6社あり、鈴鹿川が股のように分流するか合流するところに建てられた神社である。各村が鈴鹿川系の河川の水害から逃れようと建てたことによるのでしょう



中富田一里塚


式内川俣神社

川俣神社の前を直進して安楽川を横断するのが旧東海道であるが、現在は橋がないため左折して迂回し和泉橋を渡り、旧東海道に戻る。
橋を渡ったら右折して堤防の上の道を川に沿って100m程進んで土手道から左へと向かう道筋へ入ると和泉町の集落です。
さらに行くと小田町となり右手の階段の上に地福寺がある。その右側の空地には「明治天皇御小休所」の碑が立っています。



地福寺  

道筋は少し下り坂となり641号線へと合流し、すぐに関西本線の踏切を渡ると道筋は大きく左へとカーブを切っていきます。そして鈴鹿市から亀山市へと入ります。
日本武尊」の像が置かれている井田川駅前を過ぎ、歩道橋を渡って進むと、道が2又に分かれ旧東海道は左に入っていきます。

街道の右側には、真宗高田派の西信寺が堂宇を構えています。



西信寺----川合椋川橋----谷口法悦題目塔----和田道標----石上寺----和田一里塚----能褒野神社の二の鳥居----巡見道の説明板

 



西信寺を後にして、旧東海道を進むと椋川(むくかわ)に架かる川合椋川橋を渡る。
川合の地名はこの椋川(むくかわ)と鈴鹿川が合流する土地であることに由来しています。

亀山市川合町に入って間もなく国道1号の亀山バイパスの下をくぐり200mほど行くと谷口法悦題目塔(たにぐちほうえつ)と呼ばれる大きな石碑が現れます。
これは、東海道の川合と和田の境にあり、昔から川合の「焼け地蔵さん」、「法界坊さん」と呼ばれ親しまれてきたそうです。

その先の交差点を渡ると、左の歩道上に鉄枠で補強された和田道標が置かれています。
この道標は東海道と神戸道の分岐点(追分)に建っているもので、市内最古の道標です。
東海道分間延絵図には、神戸道は「脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、若松村へ三里三十四丁」と記され、亀山城下より亀山藩領若松港への重要道路であった。



谷口法悦題目塔
総高2.5メートルで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。


和田道標
道標には「従是神戸 白子若松道」と刻まれている

和田道標の先で、県道28号と合流し道は大きく曲がり、緩やかな登り坂となる。坂道の傾斜がきつくなると右側に石垣が現れ、幟がひらめく石上寺(せきじょうじ)の山門がある。
石上寺は高野山真言宗の寺で本尊は子安延命地蔵菩薩です。鎌倉時代に将軍家の祈祷所となり広大な寺領と伽藍からなる大寺院でしたが、織田信長の伊勢侵攻により焼失して寺勢は衰えたといいます。現在の建物は明和三年(1766)に再建されたものです。
尚、和泉式部が参籠したという言い伝えもあります。

200m程坂を登りきると、街道右側に江戸から104番目の和田一里塚がある。
野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚です。



石上寺
弘法大師が、地蔵菩薩を刻み一宇を建立して、那智山石上寺と名付けたのが、当山の始まりとされています。


和田一里塚
昭和59年の道路拡幅でそれまであった塚が消滅したため、一里塚があった東側に近接する場所に平成5年に復元された一里塚です。

栄町交差点を過ぎると狭い道筋へと変ります、しばらく行くと右側に大きな能褒野(のぼの)神社の二の鳥居があり、鳥居の下には地元の人が書いた「従是西亀山宿」木札が置かれています。
能褒野神社は「日本武尊墓陵」とされる塚の傍らに建てられた日本武尊を主祭神とする神社で、社殿はここから約5キロ北東の亀山市田村町の能褒野橋北側の森の中にあります。
全長約90m、後円径54m、 高さ約9mの王塚とか、丁字塚と呼ばれていた三重県北部最大の前方後円墳を日本武尊の墓であると認定し、以後宮内庁が能褒野陵として管理しています。

そのまま進み本町の交差点の側に巡見道の説明板がある。 ここで東海道から巡見道が分岐していました。

東海道から北上して菰野を経て濃州道と合流し、関ヶ原で中山道に繋がる約60kmの道程で、江戸時代に幕府の巡見使が、諸国の政情や民情などの査察や災害などの実情調査の為に、通ったことから巡見道の名で呼ばれていました

旧街道はこの先で大きく左にカーブし、亀山城下の東側出入口にあたる「江戸口門跡」へと進んでいきます。

 

いよいよ亀山宿に入ります。


能褒野神社の二の鳥居の下にある標識 従是西亀山宿の木札と能褒野神社の文字がある。


巡見道の説明板




(つづく)<亀山宿(かめやましゅく)から関宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=188

 


旧東海道9 (四日市から関)-2 <石薬師市宿(いしやくししゅく)>

<石薬師市宿(いしやくししゅく)から庄野宿へ>(3.3km)

 

(前)<四日市宿から石薬師宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=185

 

石薬師市宿は、江戸から44番目の宿場町で、四日市と亀山の間が長すぎるために設けられた宿場です。
宿は休憩地の役割が強く、宿泊客が少なかったので宿の経営は苦しかったと言われる。 人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓が130軒と70%も占めていて、農村的性格の強い宿場であったという



広重が石薬師寺の山門を描いたもので、石薬師寺と山を背景に数軒の藁屋根の家が描かれています。



石薬師の案内板----大木神社の鳥居----小澤家本陣跡----石薬師文庫---浄福寺----石薬師寺----石薬師一里塚跡碑

 



浪瀬川を渡り、二股を右に入るとそこからが石薬師宿(いしやくししゅく)になる。
その分岐点に石薬師宿と刻まれた石柱が置かれている。
又この地は、明治から大正、昭和にわたって歌人、歌学者として活躍した佐佐木信綱の生誕地としても知られています。
坂道を登って行き石薬師の町並みに入ると、右側に大木神社の鳥居が現れその先に、立派な建物が見えてきます。この建物が本陣だった小澤家です。



石薬師宿と刻まれた石柱


小澤家本陣跡
案内板には、「屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く、元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。国学者・萱生由章はこの家の出である。」とあった。

小澤家の向かいには、問屋場があったそうです。少し進むと、石薬師文庫がある。これは、佐佐木信綱が昭和7年(1932)に故郷に寄贈したもので、その左側にある連子格子の二階建ての家が佐々木信綱の生家で、信綱は一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごしました。かの有名な唱歌「夏は来ぬ」は信綱の作詞です。ということでこの辺りは「卯の花(ウツギの木)の里作り」に取り組んでいるそうです。
なんとなく「卯の花の匂う垣根に・・・・・」と口ずさんでいました。



石薬師文庫 建物前の四角い石碑には「佐佐木信綱」と「佐佐木幸綱」の歌が刻まれています。

交差点を渡ると左側に山門を構えるのが真宗高田派・浄福寺である。佐佐木家の菩提寺だそううです。

下り坂を300mほど行き1号線を跨ぐ瑠璃光橋を渡るとすぐ右に「西国薬師第三十三番霊場」「石薬師寺(いしやくしじ)」の表札がかかった山門がある。
この寺の本尊は弘法大師が土中から現れた霊石に1日で薬師如来を刻み込んだと伝えられ、厄除け信仰を集めている。石薬師宿という名は全国的に有名なこの寺から付けられたと伝えられています。
また東海道の名刹として知られ、参勤交代の大名が必ず参詣したそうです。





石薬師寺
規模は、塔頭寺院が十二ヵ寺院、寺領も三町に達するほどの大寺院であったが、天正3年(1575)の織田軍による兵火で諸堂坊舎はことごとく灰燼に帰したが、幸いにも本尊の薬師如来は難を免れたそうだ。その後、江戸時代の寛永11年(1626)に諸堂諸坊を再建し現在に至っています。

石薬師寺を出ると石薬師宿は終わります。

石薬師寺の前からは道はなだらかな下り坂になって右に曲がり鈴鹿川支流にかかる浦川橋を渡り左折すると、すぐ先に、日本橋から102番目の石薬師一里塚跡碑がある。



石薬師一里塚跡碑

国道の左を流れる一級河川の鈴鹿川は三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿山脈の那須ケ原岳(標高800m)の東麓に源を発して、三重県の北部を東進しながら四日市の南端の伊勢湾に注ぎ込んでいます。川の総延長は約40kmです。

そのまま進みJR関西本線のガード下を潜って右折する。田畑の道を関西本線の沿って歩き小さな川の手前の1号線のガード下を潜って左折して1号線と合流して進む。はずだがそのガードが見つからず定五郎橋を渡って1号に合流した。ここから庄野宿の入口までは1.4km程の距離です。

本来の旧東海道はJR関西本線の線路を斜めに横切るようにできていましたが、現在その道は消滅してるとの事でどちらでもいいのかもしれません。


国道を淡々と歩き、庄野北交差点を右折して狭い下り坂道を進んで、100m先の最初の十字路を左折すると庄野宿に入ります。




(つづく)<庄野宿(しょうのしゅく)から亀山宿へ>http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=187


 


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