旧東海道6(掛川から豊橋) −5


白須賀宿(しらすかしゅく)から二川宿へ>(5.8km)

白須賀宿の名前の由来は、「白い砂州の上に開けた集落」と言う意味で、和歌や多くの文献にその名が出てくる。
その名の通り宿場は海辺近くにあったが1707年の大地震で壊滅したため 翌年、潮見坂の上に移されたとの事。
多くの大名はここを素通りして浜松、舞坂、西であれば御油、赤坂に宿泊としたという。


東海道標識 白須賀宿・火鎮神社----一里塚跡・高札立場跡----神明神社----東海道標識 白須賀宿・潮見坂下----おんやど白須賀----潮見坂公園跡碑----曲尺手標識----本陣跡----白須賀宿の西端

白須賀宿に入ると、鎮守の火鎮神社(ほづめじんじゃ)の東海道標識がある。
直進すると一里塚跡・高札立場跡の表示板があり、その先に白い壁の神明神社がある。そこから400m位先にある東海道標識 白須賀宿・潮見坂下で右折して坂を上る。
この坂が潮見坂で街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されている。



白壁の 神明神社


潮見坂よりの景色は昔と変わっていないようだ。
西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることが出来る場所として、古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を楽しませてくれる。 浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いている

坂を登りきると、おんやど白須賀がある。ここは、東海道宿駅開設400年記念として建設され白須賀宿の歴史文化や旅人の交流休憩施設となっている。
その先に、潮見坂公園跡碑がある。



潮見坂公園跡
右の説明標識には「明治天皇が江戸へ行幸するときに休まれた場所であり、その昔には、織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が茶邸を新築して信長をもてなした場所でもある」と書いてある

坂を下って行くと板格子の静かな家並みが続く。町並みを楽しみながら歩いて行くと、道は直角に曲げられている。ここに曲尺手(かねんて)の説明標識があった。
曲尺手とは、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。 しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態である。そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら休憩を装い、最寄りのお寺に緊急非難をした。


その先に本陣跡がある。これは本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864年)の記録には、建坪183坪、畳敷231畳、板敷51畳とある。
本陣を過ぎると白須賀宿の西端になる。



白須賀宿の西端を示す現代の標識




境橋----細谷一里塚跡----JR新幹線のガード----筋違橋

小さな橋である境橋は三河国と遠江国の国境であった。現在は、静岡県(湖西市)と愛知県(豊橋市)の境となっている。やっと静岡県を抜け二川宿へ向かう。

国道1号に入ると愛知県県道402号線が交差する交差点に細谷一里塚跡がある。この後は田園風景の中に延びる国道をひたすら4km程歩きJR新幹線のガードをくぐって右に行く。梅田川にかかる筋違橋を渡り二川宿に入る。



やっと愛知県に入りました。




二川宿(ふたがわしゅく)から吉田宿へ>(6.1km)

二川宿は東海道33番目の宿場。東海道を江戸から京都へと上って行くと、 三河国(愛知県)最初の宿場町だった。 宿場規模は小さく町並みも1.3km程度しかなかった。 現在では豊橋のような大開発を免れ、江戸時代の町割りがほぼそのままの状態で残り、旧東海道ではここと草津宿だけにしか残っていない本陣の遺構がある。 なお、本陣一帯は豊橋市の史跡として指定されている。

筋違橋----二川一里塚跡標柱----妙泉寺----東駒屋----二川宿本陣跡(豊橋市二川宿本陣資料館)----二川駅----クロマツ跡の石柱----飯村一里塚跡

梅田川を渡り、道なりに進み東海道本線の踏切を渡るとほどなく東海道三十三番目の宿場、二川宿となる。
JR東海道本線の踏切を横断して左折して100mほど行った右に、江戸から72里の二川一里塚跡標柱がある。そして境内に芭蕉句碑のある日蓮宗の妙泉寺がある。
この辺りは旅籠、商家の東駒屋など江戸時代の面影を残している建物も見ることができる。
この先には立派な二川宿本陣跡がある。



正月飾りの東駒屋


二川宿本陣跡(豊橋市二川宿本陣資料館)
豊橋市二川宿本陣資料館となっていて、昭和63年に江戸時代の姿に整備復元されたもので、敷地内には1716年〜1818年に建築された表門、母屋、玄関、土蔵などが当時のまま残っている。

西へ800m弱でJR二川駅につく。駅の先300mぐらいで道は東海道新幹線と別れ右方向の北へ進み、火打坂を上がって、花屋の角を左折する。道は北西へ下り坂になると旧東海道のクロマツ跡の石柱が立ってる。そこに今は無きクロマツの写真が填め込まれていた。

柳生川にかかる殿田橋を渡ると、すぐ左に江戸日本橋から73里の飯村一里塚跡標柱がある。 この一里塚跡を過ぎると道は1号線と合流し、吉田宿へと向かう。




今は無き旧東海道のクロマツ






吉田宿に入る
吉田宿は、永正2年(1505)に牧野氏が城を築いて以来の城下町として栄えた。 本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒の大きな宿場だった。約7000人の人が住んでいた。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」といわれ、飯盛女の数も多い宿場として知られていた。

秋葉山常夜燈----吉田城東惣門跡---- 曲尺手門の石碑----東海道標 吉田宿----吉田宿本陣跡石碑---東海道 吉田宿の石柱-----吉田城西惣門

北西に約2.5km歩いて行くと5差路の西新町交差点に出る。
5差路の歩道橋を渡ると大きな秋葉山常夜燈がある。側には吉田城東惣門跡もあった。この東総門跡の先からが東海道三十四番目の宿場、吉田宿となる。

道は国道1号から離れ南に歩きすぐに右に曲がる。
中央分離帯に史跡 曲尺手(かねんて)門の石碑がある。曲尺手門は吉田城内への入口の一つでここから右折して300mほど北に進むと豊川に面して吉田城址のある豊橋公園に出る。
この分離帯には東海道標 吉田宿の石柱もたっている。
旧東海道は分離帯を横断して100m程で左折し、また右折して西へ進み宿場の中心である豊橋市街に向かう。



歩道橋から見える市電



秋葉山常夜燈
これは、文化2年(1805)に吉田城東惣門に近く東海道から本坂通りへの分岐道に建てられたもので、一部復元だが総高は、5.03mもあり大変貴重なものだそうです。


分離帯中にある 東海道標 吉田宿

国道259号線を横断するとすぐに吉田宿本陣跡石碑がある。この辺りが宿の中心部として一番の賑わいだったそうです。
本陣から300mぐらいにある東海道 吉田宿の石柱を右に曲がり国道23号と交差すると吉田城西惣門の跡がある。この辺りが吉田宿の西の入口ということになる。



本陣跡の石柱


吉田宿 西の入り口 西惣門






(完)






旧東海道5(静岡から掛川) −4

 

 

 

 


日坂宿から掛川宿へ>(7.1km)

本陣 扇屋----問屋場跡----下木戸跡----事任八幡宮----伊達方一里塚跡石碑----諏訪神社----成滝の東海道道標----大頭龍大権現と福天大権現参道道標の石碑----馬喰橋・葛川一里塚----東海道七曲り


25番目の宿である日坂宿は、山峡の小宿で、ゆるいカーブを画いて700mほど続く町並みの形態はいまでも変わらず、その西端に旅籠の川坂屋が復元され当時の面影を伝えている。

峠を下り切り国道1号線を横断すると日坂宿の町並みの入口となる。
古い家も残り、本陣跡問屋場跡高札場跡と続き昔のま営業をしている旅篭やお店がある。



本陣 扇屋



古宮橋の架かる逆川の手前に下木戸跡がありもう日坂宿は終わってしまう。



日坂宿 宿場口の標識を過ぎ、1号線と合流して右折したT字路の正面に、事任八幡(ことのままはちまん)宮がある。ここは、古代から、必ず願いごとのままに叶うありがたき社、として朝廷をはじめ全国より崇敬されていたと、平安時代の「枕草子」にも記されている神社である

このまま国道1号線を南下して、掛川バイパスを越えてから1号線と分かれて直進し200m行くと、江戸より57番目の伊達方一里塚跡石碑が立っている。旧東海道は国道1号線に合流するが、さらに150m歩いて諏訪神社の地点で再度1号線と別れて左に入り、400mほど迂回してまたまた1号線と合流する。
そしてひたすら国道1号線を2.5km行き、本村橋交差点で国道1号線と別れ左の道に入る。ここに成滝の東海道道標が建てられていて、掛川宿宿境まで二十町(2.2km)、日坂宿宿境まで一里六町(4.5km)と記されている。



伊達方一里塚跡石碑


諏訪神社

大頭龍大権現と福天大権現参道道標の石碑を過ぎて、逆川にかかる馬喰橋を渡ると左側のたもとの、直径1mほど小さく盛り土されところに、江戸から54里の葛川一里塚がある。道路挟んで向かい側には、おおきな看板?を掲げた、掛川名物振袖餅を売っている有名な和菓子屋「もちや」がある。

 

この辺りで日坂宿は終わり、東海道七曲りから次の掛川宿が始まります。




馬喰橋 橋げたが馬の顔になっていて面白い。


葛川一里塚跡









(完)



 

 

 

 

 


旧東海道5(静岡から掛川) −3





島田宿から金谷宿へ>(3.9km)

栃山橋----本陣跡----大善寺----川越遺跡----大井川橋

島田宿は東海道一の難所大井川 の渡し場を擁する宿場である。 川越の収入と川留め(川の水かさが増すと渡れない)時には泊まり客が溢れ 宿場の収入は莫大であった。

JR六合駅前で北へ一部迂回してさらに進み大井川へ流れる大津谷川にかかる栃山橋を渡る。この橋の東端から島田宿となるようだ。御仮屋町に入ると1号線と分れて左手の道を直進して繁華街になる。本通りには島田宿の案内板で詳細の説明がなされている。本通り4丁目の本陣跡を過ぎてそのまま進むと梵鐘が有名な大善寺がある



大善寺の鐘楼
大井川の川明け(明け六つ)と川留め(暮れ六つ)の刻限を知らせた「時の鐘」

向島町に入り東海パルプ工場の前を左手へ行き、国指定史蹟の島田宿大井川川越遺跡の町並みに入る。
街道には江戸時代そのままの町並みが残されていた。川越人足たちが集まった番宿や、川会所、札場なども復元されている。川を渡るには、川会所で川札を買い、川越人足にこれを渡して、肩車、連台などで川を越すものであった。





復元された町並み


川越えの様子
安部川と同じように川札の値段は、毎朝水の深さと川幅を計って定めた。
大雨で増水すれば、何日も足止めされた。最大28日の足止めがあったそうだ。

いよいよ堤防に上り右手に見える大井川を渡る。現在は大井川橋だが約1kmもの長い橋だ。この橋を渡るともう金谷宿だ。


堤防から大井川を望む


長〜い橋です(1026.4m)





金谷宿から日坂宿へ>(6.5km)

大井川橋---八軒屋橋----本陣跡群----金谷一里塚跡----金谷大橋(現在は不動橋)----金谷坂(旧東海道石畳入口)----六角堂地蔵尊----諏訪原城跡----菊川坂----菊川の里----小夜の中山、久延寺----佐夜鹿(小夜の中山)一里塚----夜泣き石跡----二の曲がり

大井川橋を渡って左に堤防を100mほど行ったところの道を左に入ったところが、旧東海道となる。
金谷宿の入口になる八軒屋橋にも川越の様子がほどこされていた。
大井川鉄道新金谷駅の踏切を渡り、道なりに南西に曲がると金谷宿の本町の町並みに出る。
石造の常夜灯を中に収め木枠で作られた常夜燈があった。その先が山田屋本陣跡(三番本陣)、佐塚本陣跡柏屋本陣跡(一番本陣)と続く。
町並みを抜けJR東海道線のガードをくぐる手前に金谷一里塚の立札がある。



橋げたも楽しい 八軒屋橋


木枠で作られた常夜燈


柏屋本陣(一番本陣)
尾張徳川家、紀伊徳川家の定宿。建坪 264坪、門構え、玄関付き

ガードを潜り南下してすぐに金谷大橋(現在の「不動橋」)があり、ここが金谷宿の西の入り口のあたり、金谷坂の上り口となり、牧之原台地と小夜の中山峠の急坂を連続して登り下りする東海道の難所の始まりとなる。

国道473号線に出て横断したところに、旧東海道石畳入口の大きな標識が立っている。この石畳は江戸幕府が金谷宿と日坂宿の間にある金谷峠の坂道を旅人が歩き易いように山石を敷きつめたといわれている。現在の430mほどの石畳は、町民一人ひとりがボランティアとして、石を運び丁寧に復元したそうです。





金谷坂の入り口(登り)  復元された石畳が始まる。

小雨の中、石畳の坂を上っていると町民が集まっていたので何かと覗くと、別名「長寿・すべらず地蔵尊」と呼ばれている六角堂地蔵尊があった。すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事も願いが叶うということからきているそうで、地元の人に大事にされているようだ。

坂を超えると広々とした諏訪原城跡に出た。この城は1573(天正元))年武田勝頼が家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築いた山城だそうだが、今は建築物は何も残っていなかった。



すべらず地蔵 とはいえ雨の石畳はチョット怖かった。

諏訪原城址跡がピークでここからは、やはり石畳の菊川坂を下る。約700mも続く急こう配を下るのは少しシンドイ。最後の長さ161m、最大幅4.3mの石畳は江戸時代後期のまま残されている。
下りきった所が、間の宿 菊川の里 である。日坂宿まであと一里と記されている。



菊川の里 標識
中世から栄えた旧東海道の宿場であったが、江戸時代では東海道五十三次に指定されず、間の宿になった。 間の宿とは、宿場と宿場の間に発展した休憩用の町場のこと。商家が軒を連ねても、宿場ではないため宿だけはない。旅人も宿泊は厳禁で、いかなる場合でも宿泊には金谷宿の許可を必要としていた。

菊川の里の静かな町並みを抜けると最大の難所となる小夜の中山で、急坂をどんどん登ると頂上に久延寺(きゅうえんじ)(251m)がある。此処は、掛川城主の山内一豊が境内に茶室を設けて、関ヶ原戦に向かう家康をもてなした茶亭の跡地、その礼に家康が植えたとされる五葉松の跡、夜泣石伝説ゆかりの寺としても有名な古刹である。
その少し先が、江戸から56里目の佐夜鹿(小夜の中山)一里塚 で少しづつ下りになる。
この辺り一帯は素晴らしい茶畑であった。
更に下って行くと、夜泣き石跡がある。この由来も気になるので調べてみた。


小夜の中山、久延寺


一帯の茶畑を示すように ”茶”と山に書かれている。


佐夜鹿(小夜の中山)一里塚

夜泣き石 (小夜の中山) 伝説
静岡県(旧遠江国)掛川市佐夜鹿の小夜の中山(さよのなかやま)峠にある石。夜になると泣くという伝説があり、遠州七不思議のひとつに数えられる。
曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年)(1805年)によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。 その時お石の傷口から子供が生まれた。そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を『夜泣き石』と呼んでおそれた(by Wikipedia)



峠の道の真ん中に鎮座する夜泣き石と旅人を描いた有名な「日坂・小夜の中山」の広重の絵
今は、夜泣石跡の石碑があるのみです。

更に下って行き沓掛の急坂、急曲がりの連続の難所二の曲がりになります。現代の靴でも怖いくらいの急坂を下るといよいよ日坂宿になります。


(つづく)




旧東海道5(静岡から掛川) −2

岡部宿から藤枝宿へ>(7.8km)

坂下延命地蔵堂----岡部宿案内板----旅籠柏屋----小野小町姿見の橋----問屋場跡----五知如来像----岡部の松並木----「これより東海道岡部宿」の石碑

坂下延命地蔵堂を過ぎて国道の歩道橋を渡り、国道沿いに歩き丁字路を右にゆき岡部川に沿って歩いていると岡部宿案内板がある。岡部橋を渡ると岡部宿を代表する大きな旅籠柏屋(かしばや)がある。気軽に中に入れたので庭を拝見してきた。


岡部宿の旅籠の柏屋
  建設当時の姿をそのまま再現したような歴史資料館とそれに付随する物産館や展示ギャラリーに姿を変えている


中にいたのは人形でした

柏屋の隣には本陣跡があった。先を進み左の旧道に入るとすぐに小野小町姿見の橋があった。橋といっても50僂良位しかないどぶに架かるほんとに小さな橋だが、説明板に面白いことが書いてあった。


小野小町姿見の橋 左の説明板には以下のように書いてありました。
絶世の美女と名高い小野小町が夕日に映える西山の景色に見とれていたが、ふと下を見下ろすと長旅で疲れ果てた自分の顔が目に入った。その老いの身の上を嘆いたとされる橋

この先は旧東海道らしい落ち着いた静かな家並みが気持ち良い。本道に合流する手前に問屋場跡(といやばあと)があり、合流後すぐに五知如来像がある。これも説明板に興味深いことが書いてあった。その先には東海道岡部宿の松並木の標識のある松並木を歩くと、藤枝バイパス下のガード手前に京都方面から来た人のために「これより東海道岡部宿」の石碑が置かれていた。


五知如来像
田中城主だった内藤紀伊守が、岡部宿外れの誓願寺にある五知如来像にひたすら願をかけたところ、口の不自由な姫が治癒したといういわれがある。
五知如来とは、釈迦如来、阿門如来、大日如来、宝生如来、阿弥陀如来の事



岡部宿の松並木




藤枝宿から島田宿へ>(8.7km)

藤枝バイパス----岩村藩領傍示杭跡----横内橋----岩村藩領傍示杭跡----従是西田中領----鬼島一里塚跡標識----須賀神社のクスノキ----濱小路----東海道案内板----藤枝宿標識----志太一里塚蹟----田中藩領傍示蹟----古東海道蹟----千貫堤----上青島の一里塚

藤枝バイパス下のガードを潜ってすぐ右の東海道横内に入ると直ぐに岩村藩領傍示杭跡がある。
これは横内村が岩村藩領であったことを標示した杭で、岩村藩は美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とし松平能登守が3万石の領地を持ち、駿河国には154村五千石分の飛地の領地を持ち、横内村に陣屋(地方役所)置いて治政を行っていたということでこの先何回も同じ藩領傍示杭跡が現れる。

この後はどんどん南下して横内橋を渡る。1号線と81号線との交差点の手前に「従是東巌村領横内」の標識が立っている。歩道橋を渡ると今度は「従是西田中領」の石柱がある。
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従是東巌村領横内


従是西田中領

葉梨川沿いに歩いて再度1号線に出てからすぐまた左の道に入り暫らく歩くと民家の前に、江戸から49里の鬼島一里塚跡標識がある。
そのまま進み葉梨川にかかる八幡橋を渡ってから、葉梨川沿いに歩いていると右手にとても立派な木が現れた。これは水守の須賀神社のクスノキであった。



須賀神社のクスノ 樹齢約500年で根廻り15.2m、樹高23.7m、枝張りが東西21.2m南北が27.9mの巨木(静岡県指定の天然記念物) 

国道1号を渡るといよいよ藤枝宿に入る。
さらに進むと道端に濱小路(東海道藤枝宿左車町)の木の標識が立っている。是より焼津湊まで1里と書いてあった。旧街道を進んで行くと東海道案内板がありその地図に依れば、この少し手前の新護寺辺りに東木戸跡があったようだ。
その先の藤枝宿標識の後ろには大きなヒバの木の隣に常夜燈がある。そして道が左にカーブする辺りに本陣跡の標識が歩道に埋められてあった。
藤枝宿には史跡は残っていないが、有名なお寺が数々ある。



藤枝宿標識の後ろにある 常夜燈


道路に埋め込まれた 本陣跡の標識

瀬戸川にかかる勝草橋までで藤枝宿は終わる。
橋を渡った所に志太一里塚蹟(江戸から50里目の一里塚)があった。
更に南下して1号を横切り、更に216号を横断すると、「東海道を旅する方へ」の標識を掲げお茶のサービスをしてくれる現代の休憩所があった。ちょうど疲れも出てきたころなので助かります。
もう少し南下するとまた田中藩領傍示蹟が現れる。この辺りは、田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村であったそうです。


志太一里塚蹟

先に行くと古東海道蹟が現れた。これは、大井川の洪水が山裾に寄せたとき旅人は、松並木の東海道を使わず丘の上の道を通った。この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。

その先が千貫堤である、これも大井川の洪水から守るために360mに渡り巾29mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したそうだ。

暫らく右手に国道うぃ見ながら進むと上青島の一里塚(島田宿まで29町)がある。



上青島の一里塚







(つづく)





旧東海道5(静岡から掛川) −1

2018年12月23日(日曜日)と 12月24日(月曜日) 

旧東海道歩きの5回目で、JR静岡駅からJR掛川駅まで 府中宿から丸子宿、岡部宿、藤枝宿、島田宿、金谷宿、日坂宿、掛川宿の8宿場を2日で歩きました。

(一日目)

距離 32.8km 高低差 161m  09:04:03
高いところは、宇津の谷峠です

(二日目)

距離 20.7km 高低差 235m  05:35:59
最初の高い所は、諏訪原城址次が小夜の中山です


府中宿から丸子宿へ>(5.6km)

静岡駅----札之辻址標柱----安倍川川会所跡----安倍川を渡る

静岡駅までの府中宿については、前回に記述済みなので今回は、安倍川を渡るまでに見つけた史跡を語ろう。

家康公の像が駅に向いて立っている静岡駅から旧東海道に向かうと札之辻址標柱が歩道に建っている。この辺りには明治7年まで高札場がおかれ、札之辻と呼ばれていた。
歩道には広重の絵が並び当時の姿をしのぶことが出来る。





七間町通りを安倍川に向かって歩いていくと、大通りと合流する前に、川会所跡の高札がある。
江戸時代 架橋が禁じられていた安倍川や大井川では、旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。 川会所は間口6間(約11m)奥行き4間半で裃姿の川役人が5人、駿府奉行所の川場係が2人が詰めていました。 越賃は人夫一人、脇下から乳までが64文、臍上が55文、臍下が46文、股までが28文、膝下が16文でした。 肩車か蓮台で渡り、蓮台は人夫4人で担ぎました。


安倍川橋手前の小さな公園の中に由比宿で生まれた由比正雪公之墓址がこんなところにあった。
反対側には、赤い派手な暖簾のこじんまりとしたあべかわ餅元祖石部屋(せきべや)がある。

あべかわ餅元祖の石部屋
安倍川餅は、上流の金山に働いていた鉱夫が、金粉餅(きなこもち)といって家康に献上したのを喜んだ徳川家康が名づけたといわれている。


丸子宿(まりこじゅく)から岡部宿へ>(7.8km)

安部川橋----高林寺----左渡の子授地蔵----丸子一里塚----江戸方見附跡----本陣跡----とろろ汁の丁子屋----高札場




安倍川橋から上流を望む

安部川を渡ってすぐに高林寺があった。とても変わった鬼瓦が乗っているが写真を拡大してもよく分からない、寺紋は武田菱(たけだびし)だそうだが関係あるのかも知れない。この寺では、灸治療が行われ元祖手越名灸所の立札が門の隣に立っている。


高林寺 元祖手越名灸所 と書かれている 


高林寺の鬼瓦?

高林寺を過ぎて国道1号に合流するが200mほどで分岐して丸子宿(鞠子宿とも書くようだ)に入る。
直ぐに小さな地蔵堂があった、これは佐渡の子授地蔵といって、子供のほしい夫婦が地蔵を一体貰って行き子が授かったら一体を返したと言われている。

そのまま進み丁字路を右に行くと丸子宿の標識が現れその先に一里塚の石柱が立っている
その先に丸子宿の東木戸にあたる江戸方見附跡がある。



小さな地蔵堂


丸子の一里塚の石柱

見附を超えれば本陣跡が続き、丸子川にかかる丸子橋の手前に、とろろ汁の丁子屋があったが11時開店とのことで2時間も待つわけにいかないので残念ながらパスした。橋を渡ると丸子宿 御高札場があり丸子宿もこの辺りまでのようだ。


とろろ汁の丁子屋
宿場町として栄えた丸子で400年以上もとろろ汁を提供。 松尾芭蕉は「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」という句を詠み、十返舎一九は「東海道中膝栗毛」の丸子のシーンでとろろ汁を作中に取り入れた。また、歌川広重は「東海道五十三次・丸子」で丁子屋を描くほどこの店は有名である。



高札場を過ぎて次の岡部宿への道は、難所の宇津ノ谷峠越えが待っている。

丸子宿御高札場----日本の紅茶発祥の地----名残の松----道の駅----宇津ノ谷トンネル----宇津ノ谷集落----坂下延命地蔵堂

道は、丸子川沿いに進み国道1号に合流する。その先の左手に水車のある家があり「日本の紅茶発祥の地」と書かれていた。他でも見たような気がする??
この辺りの消火栓の蓋が面白い。
そのまま進み名残の松の少し先から赤目が谷側に渡りまっすぐ道の駅まで行って少し休憩する。



消火栓の蓋もカラフルでした、

道の駅の直ぐ先に宇津ノ谷トンネルがある。トンネルの直前を右に曲がると、明治のトンネル(宇津ノ谷)への標識があり宇津ノ谷集落に入る。
宇津ノ谷集落は、丸子宿と岡部宿の間に位置し、往来する旅人が休息した間の宿であった。
ここは歴史的街並が大事に保存されている。集落の突き当りの短い階段を登ると左に明治のトンネルそして右が旧東海道の標識が現れる。此処からが旧東海道宇津ノ谷越えである。



宇津ノ谷集落の入り口


ここからが峠越えの山道になる


峠越えの道で下に集落が見える。これは江戸時代と変わらない景色のようだ。

峠の頂上を越すと下り坂になるが、とても狭く急な険しい坂道が続きいきなり舗装道路になる。道なりに下ってゆくと岡部宿まで8町の標識が現れ、その先に坂下延命地蔵堂がある。堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒したとの事だ。岡部宿も近い。




(つづく)





旧東海道4(富士から静岡) −3

 

江尻宿から府中宿へ > (11.4km)

JR東海道線の清水駅の前を通ると当然「清水港の次郎長一家」が思い浮かびます。随分前になりますが、清水に寿司を食べに来た時には、次郎長通り商店街の中にある「次郎長の生家」を見学したり、三保の松原を歩いたりしたことを思い出しながら今回は、旧東海道を歩きました。

巴川をに架かる稚児橋を渡って直ぐに江尻宿木戸跡がある。そのまま進むとようやく都田吉兵衛(通称 都鳥)供養塔が現れた。


都田吉兵衛供養塔
都田吉兵衛とは、通称 都鳥とよばれ石松殺しで名をはせたが、清水の次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、都田吉兵衛をここで討った。 里人は吉兵衛の菩提を弔う人が少ないことに哀れみ供養塔を建てたという。

この地域の追分羊羹が街道の名物と知られ、道中食でもあったとのこと。羊羹は日持ちするし甘いし現代でも山に行くとき非常食として持参する人も多い。

更に西に進み、東海道本線の踏切りを渡り旧道を進み国道に合流する。しばらく国道を歩くと 橋の先に凄く大きな鳥居が見える。これが草薙神社への鳥居で、神社はかなり南にある。


草薙神社への大きな鳥居

鳥居の先で国道から離れ左の静かな旧道を行き高速道路を潜るとすぐに県総合運動公園駅にでるので国道を渡り地下道に入りJRの線路を渡る。(この辺りは少し分かりずらい)
線路に沿って歩き川を渡ると府中宿への標識も出てくる。
国道1号を横断して旧道に入り長沼の一里塚跡を見つける。再び国道を渡り更にJR東海道も越え旧道を行く。この辺りが曲金で直ぐにJRと国道1号を渡り返す。ようやく日吉町駅辺りで、府中宿の標識が現れJR静岡駅が見えてきた。
今日のゴールに着いた。


長沼の一里塚跡


府中宿に着きました。








(完)






旧東海道4(富士から静岡) −2

 

由比宿から興津宿へ> (10km)

神沢の信号を左に行くと江戸から39番目の由比一里塚があり由比宿に入ったことがわかる。
一里塚の先の左に綺麗で大きな公園がある。ここで一休みすることにした。これは由比本陣公園で、由比本陣公園内に設けられた美術館では「東海道五十三次」で有名な浮世絵師、歌川広重の作品を中心に展示されている。



由比宿本陣公園 本陣跡を整備復元したもので、正門、物見櫓等が復元されている

公園の向かい側に、由比正雪の生家と伝えられた染物屋正雪紺屋があった。この紺屋(染物屋)は江戸時代から400年続いているといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物道具や、天井に吊れれた用心籠は火災等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。


正雪紺屋
由比正雪  慶安の変で有名な由井正雪は優秀な軍学者であったが、仕官には応じず、軍学塾・張孔堂を開いて多数の塾生を集めていた。 慶安4年(1651年)4月、新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として幕府の転覆と浪人の救済を掲げて、幕府を支持する者たちを完全に制圧する、という作戦を立てた。
しかし一味の密告により、計画は事前に露見してしまう。慶安4年(1651年)まず丸橋忠弥が江戸で捕縛される。その翌日に駿府で奉行所の捕り方に宿を囲まれ、由比正雪も自決を余儀なくされ、計画は頓挫した。これが慶安の変である。


紺屋の隣には黒い塀の中に明治時代の郵便局の建物があった。

江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、飛脚屋と呼ばれていた。明治4年3月、郵便制度の創設により飛脚屋は由比郵便取扱役所となり、さらに明治8年1月由比郵便局と改称された。

平坦な道を30分ほど行くとJR東海道本線由比駅にでる。直ぐ先の歩道橋を渡って右の細い道に出ると、薩埵峠(さったとうげ)への案内が出てきた。この先は道幅も狭く、古い家並みが残り気持ちのいい街道を味わうことが出来る。寺尾地区には、名主の館であった旧家の小池邸がある。


由比宿の名主小池氏の邸宅。今は、由比宿を散策する人のために、休憩場所として開放されている。

倉澤地区に入ると江戸から40番目の倉澤の一里塚跡がある
此処から右の細い道が旧東海道で今は、ハイキング道のようで多くの人とすれちがった。坂道を登って行くと道の両側に枇杷の木が多数あり、さらに行くと今度はみかんの木に変った。このように枇杷とみかんが交互に植えられていた。蜜柑道が開けたと思ったら、薩埵峠に着いた。そこには薩埵地蔵道標があった。



薩埵地蔵道標 「さったぢぞうミち」と書いてある。「延享元甲子年六月吉日」と刻印がある。
またここには薩堙山合戦場の説明板がある
それによるとここで2度合戦があり、「一度目は1351年(観応2年)で室町幕府を開いた足利尊氏と、弟の直義の兄弟による戦いで、ここで山岳戦をして直義軍が敗退した。2度目は1568年(永禄11年)駿河に侵攻した武田信玄を、今川氏真が討つべく薩堙峠で戦ったが敗退した。」とある

トイレのある広場は沢山のハイカーで賑わっていたが、その横を抜けて展望台の脇の階段を下りて、狭い砂利の山道を道なりに下って行くと、興津宿に入ることになる。


下りに入ると絶好のビューポイントがあった。今日は富士山がきれいに見えた。ラッキー!!

        



興津宿 から江尻宿へ>(4.6km)

由比の薩堙峠を過ぎればあとは平坦な道が続くだけなので、興津に入ったらゆっくり昼食をとることにして、所々に出てくる小さな「旧東海道」の張り紙を頼りに興津に向かうが、常夜燈が適度にあり旧東海を歩いていることを確認できた。JR東海道本線の踏切を渡り西に向かい興津川にかかる興津橋をわたる。
進んで行くと、右側に身延山道道標とともに大きな題目碑がある。

身延街道は、ここから日蓮宗総本山である身延山久遠寺を結び鎌倉時代、この街道は既に駿河と甲斐信濃を結ぶ重要な街道であった。



身延山道道標と奥が題目碑(南無妙法蓮華経の文字を日蓮宗独特のヒゲのように跳ねて書いてある)

JR東海道線興津駅を過ぎるとすぐに興津宿東本陣跡興津宿西本陣跡と続くいかにも宿場町という感じがする。
JR線路の直ぐわきに清見寺山門があり、清見寺(せいけんじ)は、階段を登り山門を潜ってから左折、右折してJR東海道本線を横断したところにある。



清見寺(せいけんじ) 奥中央に1862(文久3年)建立の立派な「鐘楼」が見える。
室町幕府を開いた足利尊氏公は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して戦死者の霊を慰め、天下大平を祈った。又室町幕府は清見寺を官寺と定め、日本を代表する寺ということで「全国十刹」の中に置き保護した。六代将軍足利義教、駿河富士遊覧に下伺せし時には、今川範政これを迎えて清見寺に来り和歌などを詠じて清遊した。この時代、画僧雪舟も清見寺に来り後年富士・三保・清見寺の景色を画いている。徳川家康公は、幼少時今川氏の人質として駿府に在りし頃、当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けた。又、後年大御所として駿府に隠栖した際には、当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依し、再三に渉って清見寺に来遊した。家康公の三女静照院殿よりは、彿殿の本尊釋迦弁る。これら諸々の因縁により、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、二百余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けるところとなった。

清見寺を後にして西へ歩き静清バイパスのガード下を潜り再度JR東海道線を渡り西へ進むと横砂町に入る。
右に東光寺の山門をみて庵原川にかかる庵原橋を渡ると、松の木が一本だけ立っている。此処には旧東海道の松と書かれた標識があった。
さらに約1km行くと辻3丁目で道は分岐し、左は1号線で右が旧東海道となる。その分岐点に細井乃松原がある。



一本だけ残っている、旧東海道の松


細井乃松原 の跡
元禄16年(1703年)の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺(約360m)松の本数206本とあったが、太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまった。

此処を過ぎると次の宿場、江尻宿に入る。

                                    




(つづく)






旧東海道4(富士から静岡) −1

2018年12月1日(土曜日)  晴れ

旧東海道歩きも4回目で、JR富士駅からJR静岡駅まで 𠮷原宿から蒲原宿、由比宿、興津宿、江尻宿、府中宿 の5宿場を1日で歩くことにした。


距離 43.3km 高低差 103m  11:07:47
真中の高いところが薩埵峠

吉原宿から蒲原宿へ>(11.1km)


JR富士駅を出発(7:30)すると富士山が街並みの向こうに大きくそびえ立っていた。

前回終了した吉原宿本陣跡の角から今日はスタート。
旧東海道に入ると直ぐに札の辻の石柱(昔の高札場跡---幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のこと)を見つける。

そのまま進み「間の宿 本市場」の標識のさきにある、身延線の柚木駅のガードをくぐり、分岐を左に行くと「左東海道の道標と秋葉山常夜燈」がある。
この先にも街道筋には要所要所に秋葉山の常夜灯がある。



左東海道の道標と慶応元年に建立された古い秋葉山常夜燈

この先は、富士川を渡る。川の手前には、富士川渡船の安全を祈願する松岡水神社渡船場跡の碑がある。
富士川は天下に聞こえた急流で水量も多く満水時には渡しも止められた、徳川家康の交通政策で、渡るには船を利用するしかなかった。


水神の森にある渡船場跡の碑と右には富士山道の碑が立っている


今は、立派な鉄橋の脇を歩いて渡ることが出来る。橋の中央からの富士山の眺めも素晴らしかった。

橋を渡った先は、眼下に富士川を見ながら坂を登り突き当りの常夜燈を左に行くと、「岩淵の一里塚」がある。


江戸より37里の岩淵の一里塚

一里塚を右に曲がり道なりに進み郵便局の手前でまた右に曲がり緩い坂を上ると東名高速道路のガード下をくぐると正面に大きな野田山不動明王の石碑があり、ここを左に行くと旧東海道でさらに下り坂を歩いてJR新幹線の線路を潜り、少しの登り坂を行き東名高速を横断すると蒲原宿になる


とても大きな>「野田山不動明王 聖徳太子 弘法大師」と書かれた道標と「薬師如来」と書かれた石碑




蒲原宿から由比宿へ>(5.4km)

東名高速を超えて坂を下りJRの線路脇に出るといよいよ蒲原宿に入ることになる。
線路に出て間もなく江戸から38番目の蒲原の一里塚が現れる。この少し先が蒲原宿の東木戸であり西木戸までの木の内には、旧民家も沢山保存され、史跡類も多く宿場町の面影を感じられる街道だ。



蒲原宿の一里塚 が最初に現れる


蒲原夜之雪の記念碑  蒲原夜之雪の絵は、歌川広重が1832年(天保3年)に京へ上った折、この地で描いたもので東海道53次シリーズの中で最高の傑作といわれている。昭和35年にはこの絵が国際文通週間の切手になった。


街道時代を彷彿される「お休み処」


国登録文化財 旧五十嵐歯科医院  五十嵐準氏が地元蒲原に歯科を開業するにあたり大正3年(1914)に建てた病院併用住宅。1階は家族のプライベート用に、2階は診察室や待合室として使用されていたという。


蒲原宿西木戸跡石柱と茄子屋の辻
青木の茶屋(茄子屋)があり、茄子屋の辻で乱闘事件があった。1653年(承応2年)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍に触れたことで口論となり、大名行列と乱闘が始まり、大久保は70人近く倒したが、追っ手に見つかり討たれてしまった。当時の竜雲寺の住職が亡骸を墓地に埋め供養した。竜雲寺には大久保の槍の穂先は寺宝となって残されているという。

蒲原宿の西木戸からは、淡々と左手にJR東海道本線を見ながら平坦な道を、真っ直ぐ西へ進む。約2.3km歩くと東名高速のガード下をくぐり、由比宿へ入る







(つづく)

旧東海道3(三嶋大社〜富士) −2

2018年8月5日(日曜日) 晴れ

原宿から吉原宿へ > (続き)

JR原駅---三社宮---植田新田---富士市・沼田新田、柏原新田---立圓寺---昭和放水路---米之宮神社・淡島神社



相変わらず海岸線の千本松原に平行した一本道が続いている。
右手に、三つの祭神を祀るという三社宮がある。創建は慶安3年(1650年)と古く、鳥居前の石灯籠には文化十一申戌の銘があった。

この辺りには新田の付く地名が多いが、当時の原宿と吉原宿との間は人家が少なく道中が危険であったので、街道の整備、農民の定着とをかねて、幕府の奨励で新田開発が進められたそうだ。
植田新田に入ると、旧東海道はJR東海道線と斜めに交差している。今までは旧東海道は線路の右側であったが、ここからは左側を歩くことになる。道路の左が駿河湾で、右側が浮島ヶ原、そしてその背後が愛鷹山と富士山である。地形的にも古くから見晴らしの良い景勝地であったと思われるが、今日は全く富士山も愛鷹山も見えない。

いよいよ富士市に入った。



三社宮

東田子の浦駅手前のこんもりした森は六王子神社である。此処の言い伝えが興味深い。
「三股の伝説」
昔、沼川と和田川と潤い川とが合流し深い渕になっている所を「三股」と呼んでいました。この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがありました。 今から400年程前、関東の巫女7人が京都へ向かう途中、このいけにえのくじを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまいました。仲間の6人は国元へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまいました。村人が六人のなきがらを一ヵ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれています。おあじは鈴川の阿宇神社に祀られています。



六王子神社

少し先にとても立派な門を持つ立圓寺(りゅうえんじ)がある。
ここに「望嶽の碑」がある。尾張藩の侍医・柴田景浩が江戸に下る途中立圓寺に滞在した時に冨士を賞して、碑を建てたそうだ。



立圓寺 門の両側の仁王像も見事でした

昭和放水路を渡り少し先の田中町の信号の右側にあるのが、米之宮神社で、その左の赤い鳥居が淡島神社である。
米之宮神社は田中新田の鎮守であり、延宝6年(1678年)武蔵国鳴子の田中権左衛門という武士が、この地の開墾を行なったので、田中新田というそうだ。文化13年(1816年)の年貢取立て帳によると、家の数11軒とあり、住人は50人位との事。



淡島神社


吉原宿 >/span>
天文堀---吉原宿---左富士---中吉原宿跡---左富士神社---広重の吉原左冨士浮世絵の記念碑---平家越(へいけごえ)碑



冨士市今井に入ると、製紙工場の大きな煙突が見える。この辺りが元吉原で、古くはここが吉原宿であった。
この地は、左は太平洋、そして右側は浮島ヶ原と呼ばれる大湿地帯であったため、地形的にも水には弱かったようだで、天文堀の標識があった。
標識によると、3新田(大野・松・田中)の80ヘクタールに及ぶ水田を水害から守るために「高橋勇吉」という人物が、天保七年から十四年かけて排水用の割堀である堀を作ったとの事です。しかしながら今は土地開発等によりその跡を見ることが出来ないそうです。

河合橋を渡ると左富士だらけになる。酒の名前も左富士とあった。更にJR東海道線を渡った先に左富士神社がある。この辺が中吉原宿のあったところだ。吉原宿は高潮の影響で段々と海岸から遠ざかり、北へ北へと移動して行った。
旧街道に大きな記念碑と案内板があった。広重の「吉原左冨士浮世絵」が大きく描かれている。



中吉原宿跡の道標


左富士の松


左富士神社


広重の「吉原左冨士浮世絵」の記念碑

旧街道を進み道が左にカーブするところにある「和田川」の橋手前に平家越(へいけごえ)碑がある。
なんのことだろうと標識を読むと、「この辺り一帯は1180年(治承4年)の「富士川の戦い」で平家軍が陣を構えたところであるが、和田川沿いにあった冨士沼の水鳥が一斉に飛び立つ羽音を聞いて、敵の来襲かと思い、闘わずして潰走してしまったところであるといわれている。この故事に因み、和田川の辺に1924年(大正13年)に平家越の碑が建てられた。」との事だった。

この和田川に架かる平家越えの橋を渡ると、富士急・岳南鉄道の「本吉原駅」「吉原本町駅」もあり、江戸時代の後期の吉原宿のあったところであるである。元吉原、中吉原と比較し、新吉原ということになる。



八坂神社標識と東木戸跡---岳南鉄道の本吉原駅踏切---明治天皇御小休所の碑---西木戸跡---道祖神---旧東海道間宿本市場---鶴芝の碑---本市場一里塚碑---東 間宿(あいのじゅく)



岳南鉄道の「本吉原駅」踏切の手前に、八坂神社の標識の前に「東木戸跡」の道標があった。つまりここから新吉原宿が始まるということだ。西木戸跡は小潤井川を渡った先にあった。
踏切を渡ると「明治天皇御小休所」碑がある。
その先がかつての吉原宿の中心で、現在はとても賑やかな商店街になっている。
旧東海道はこの先を直角に左折して、国道138号に出ると前述した西木戸がある。

2018-08-05 15-57-<strong>15.jpg</strong>
東木戸跡

2018-08-05 16-05-27.jpg
明治天皇御小休所碑

2018-08-05 16-26-13.jpg
西木戸跡

この先の旧東海道は、住宅街に入るが面白いマンホールの蓋を見つけた。 その直ぐ先の住宅地の左手に、だいぶ傷んでいる僧行形をしている道祖神があった。
道祖神とは、路傍の神である。集落の境や村の中心、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されているものである。



カラーのマンホールの蓋


僧行形をしている道祖神

暫らく住宅街の道が続くが、富士市本市場に入ると県の総合庁舎の前に「旧東海道 間宿 本市場」の石碑と説明標識あった。吉原宿と次の蒲原宿の中間の休憩所で多くの茶屋が立ち並んでいたところだ。
白酒売りの茶屋で憩う旅人が、富士を背景に描かれている広重の絵も添えられている。

直ぐ先には、鶴芝の碑があったが、草木に覆われて見落としそうだった。
鶴の茶屋があったことを残す碑で、ここから眺めた冬の富士が、鶴が富士の中腹で舞っているように見えたことからこの名をつけたとされている。京都の画家蘆州(ろしゅう)が鶴を書き、これに江戸の学者亀田鵬斉(ほうさい)が詩を添え、石碑とした物で、富士市に残された数少ない貴重な江戸時代の文化財とのことだが、管理が悪いのか全く分からない。

その先道路の分離帯に「旧東海道跡地」の標識があり、信号も何もない道路を横断することになる。何とも不自然な感じがした。

製紙工場の煙突が見えるその先にJR富士駅があるはずだ。冨士税務署の手前の堀の側に本市場一里塚碑があった。江戸日本橋より35番目の一里塚である。これも周りが整備された様子がなくそのうち見えなくなりそうであった。


「旧東海道間宿本市場」の石碑と説明標識


草木の奥の 鶴芝の碑 

2018-08-05 17-09-08.jpg
分離帯にある標識 この脇を通り抜けます。

2018-08-05 17-16-43.jpg
本市場一里塚の碑

一里塚跡を過ぎると旧東海道は富士本町通りと交差する。この道を左に折れ真っ直ぐ行くとJR冨士駅である。 この交差点には、「東 間宿(あいのじゅく)」の標識が立っていた。

今日の工程はここまでで、次回はこの交差点からスタートになる予定です。


2018-08-05 17-21-40.jpg
東・間宿(あいのじゅく)の標識

猛暑の中よく歩きました。



(完)





 


旧東海道3(三嶋大社〜富士) −1

2018年8月5日(日曜日) 晴れ


三嶋大社〜富士駅 31.2km

三嶋大社--(三島宿)----(沼津宿)----(原宿)----(吉原宿)----本市場一里塚----JR富士駅

旧東海道シリーズ3は、JR三島駅に7:56に到着して前回のゴール三嶋大社まで歩き今日の無事をお祈りして、改めてスタートしました。
JRの三島駅からJR富士駅までは約30kmあります。今年の猛暑の中どこまで耐えられるか心配です。
少しづつ分割して報告します。


三嶋宿から沼津宿へ > (5.9km)

三嶋大社---かみごてんばし---桜屋---千貫樋---常夜燈---宝池寺の一里塚---玉井寺の一里塚---対面石---常夜燈---黄瀬川(きせがわ)---潮温寺の亀鶴姫の碑


三嶋大社をスタートしてすぐにとても可愛い橋があったので思わずパチリ。(かみごてんばし)
その先には、有名なうなぎ屋「桜屋」があった。

加屋町の小さな川「境川」にかかる「千貫樋(せんがんどい)」は伊豆、駿河の国境の境川の上4mのところを横切って架けられた水を通す樋のことで、長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cmであった。
天文24年(1555年)、今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に引き出物として、水の豊富な小浜池から、長堤を築き、その水を駿河に疎通させたことが始まり。この疎水により、駿河の新宿、玉川、伏見、八幡、長澤、柿田等200石(130ha)の田を潤したとのこと。
樋は木で出来ていたが、大正12年の関東大震災で崩落したため、現在はコンクリート製となっている



かみごてんばし 


有名なうなぎ屋さん


境川 この川に「千貫樋」が架けられたそうです。

境川橋を渡り駿河国に入る。右手に立派な「常夜燈」がある。
常夜燈とは、街道筋に設置され、一晩中灯火を点けておくものです
この常夜灯の両側には秋葉大権現と冨士浅間宮と刻まれていた。いずれも火の神様です。村人が防火の願いを込めて弘化3年(1846年)に建立されたものだ

国道1号の手前左側の宝池(ほうち)寺の前に一里塚がある。昭和60年に改修されたもので江戸から29番目の一里塚だ。道を挟み反対側にも玉井(ぎょくせい)寺にある一里塚がある。こちらは江戸時代から続いたもので、昔の姿をそのまま残している。


均整の取れた美しいい常夜燈


宝池(ほうち)寺の一里塚 (江戸から29番目)


玉井(ぎょくせい)寺の一里塚

国道1号を超えると、右側に八幡神社があり「対面石」なるものがあった。
対面石とは、治承4年(1180年)、頼朝挙兵の報に、奥州平泉より駆けつけた義経がここで始めて頼朝と対面し、その時腰掛けたという一対の石のこと。

更に行くとまたもや常夜燈があった。こちらは随分年期が入ったようで柵でかこわれていた。
その先の川は、黄瀬(きせ)川で、狩野川に合流し、駿河湾に流れ込んでいる。この黄瀬(きせ)川を渡ると、静岡県の清水町から沼津市に入る事になる。


対面石のある八幡神社


常夜燈

更に進み街道右手にある「潮温寺」の入口に亀鶴姫の碑がある。
黄瀬川村の長者、小野善司左エ門政氏の一人娘亀鶴姫が7歳の時両親と死別。18歳の時、頼朝が冨士の牧狩りの宴に、再度召されたが応ぜず、この世を憂き事と思い、黄瀬川の上流の百沢の瀧に身を投げて死んだと説明板にあった。亀鶴姫は賢女で、駿河の三美人とまで言われた評判の女性であったようだ


亀鶴姫の碑


沼津宿から原宿へ > (5.9km)

沼津領傍示石---日枝神社---沼津駅---乗蓮寺(すいれんじ)---六代松の碑---沼津藩領榜示杭


この区間は道を間違えて旧街道を外れた為いくつかの史跡を見落としました。(残念!!)
沼津藩は、領地領田の境界をしっかり示しているようで、東西に境を表す沼津領傍示石を置いてあります。
日枝神社の手前には、「従是西 沼津領」と彫られた傍示(ほうじ)石があり、西間門には東の傍示石がある。
沼津駅から南に旧街道に戻り、永代橋通りで右折し、そのまま真っ直ぐの道が旧東海道であるが、とてもきれいなお寺があるので立ち寄ってみた。これが乗蓮寺でした。
旧街道に戻り暫らく歩くとみちの左に「六代松の碑」があった。その先が東の傍示石で沼津藩はそれほど大きくないことが良く分かった。



乗蓮寺(すいれんじ)
京都知恩院の末寺で、天正8年(1580年)の開基。若山牧水の墓があった。若山牧水は大正9年(1920年)に沼津に移り住み、昭和3年にこの地で没したとのこと。


六代松の碑
「六代の松是より南一丁半」の石柱。「平家物語」によれば、ここで平惟盛(これもり)の子六大御前が斬られたという。その首が埋められているそうな。


沼津藩領榜示杭
「従是東」しか残っていないが、この下に「沼津領」と刻まれていたとはず。江戸時代、天領や私領の入り組んだ所では領域の存在をはっきりさせるために、榜示杭が建てられていたそうです。

この沼津領の榜示杭を過ぎると、次の「原宿」まで、ただ淡々と長い一本道になる。


原宿から吉原宿へ > (11.7km)

松長一里塚跡脾---原宿---白隠(はくいん)禅師誕生の地碑---JR原駅


この辺りの旧東海道にはあまり面影も残っていない、そして木陰もなく猛暑に歩くのはキツイが、左手に見える(現)東海道は「千本松原」できっと旧街道に近いのではと思いつつ歩く。街道の両側には多くの立派な寺、神社が多い。
江戸から30番目の松長一里塚跡脾(沼津市大諏訪)を過ぎJR東海道の踏切を渡ったあたりから原宿になると何もかも白隠(はくいん)の名がついているのが」目につく。
そのはずであった。 「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」といわれるように原宿にはこの白隠(はくいん)禅師所縁の寺、松蔭(しょういん)寺があり、白隠禅師誕生の地碑がある。



白隠禅師誕生の地碑
白隠禅師は、15歳の時松蔭寺で出家、慧鶴(えかく)と名づけられ、19歳より諸国の旅を重ね、精魂を尽くして修行を積み、享保2年(1717年)松蔭寺の住職となり、翌3年34歳の時京都妙心寺の第一座となった。 その後、禅の大衆化を図りついに500年に1人と言われるほどの高僧となり、臨済宗中興の祖と仰がれた。



(つづく)


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