旧東海道1  (平塚〜箱根)

2014年11月23日(日曜日)  快晴


中原街道の終点であった、平塚から旧東海道、旧箱根街道を繋ぎ「箱根関所跡」まで歩きました。(約40キロ)

過日に、日本橋から平塚までを「中原街道」で踏破したので、今回はその続きということで旧東海道で平塚から箱根関所跡までを歩くことにした。
まずは平塚駅からJR東海道と国道1号の間にある旧東海道に出てスタート。 ゴールの「箱根関所跡」に昼に着くようにする為に、平塚駅のスタートは深夜2:30とした。
思って居たほど寒くはない。しかし深夜のため街道沿いにあるはずの名所旧跡を見つけるのが困難。

旧東海道が国道1号と合流して花水橋を渡るころ、前方に気になるぽっかりした山が見える。これが「高麗山」で後に調べてわかったのだが、広重の五十三次の絵に描かれているそうだ。


広重の「高麗山」

日本橋から16番目の一里塚となる「化粧坂の一里塚(けわいざかのいちりつか)」から再び国道を離れると、旧道らしい落ち着いた雰囲気となった。JR東海道線をくぐると「大磯宿」になる。再び国道に合流して「城山公園前」まで国道を行く。

大磯宿の様子が描かれている。

国道をひたすら歩く。国道沿いに旧家らしい建物が所々に見える。二宮駅を過ぎ、西湘バイパスと並ぶ国府津近くで夜が明け始める。海岸に出てみると釣りをしている人が大勢いる。浜辺で一休みしながら日の出を待つ。

日の出前の釣人達


日の出が美しいです!

国道1号の酒匂川(さかわがわ)を渡ると小田原がもうすぐそこだ。この辺りには古い建造物が数多く残っていた。


酒匂川から富士山が見えます


何の建物でしょうか?

小田原城を右に見るころ「箱根口」の交差点の標識に早くも箱根に入った感がしてくる。
東海道新幹線をくぐり、箱根登山鉄道を横断して国道から分かれ「風祭地区」に入ると旧街道の趣を色濃く残している。



旧街道らしい風祭地区

小田急箱根湯本駅の手前で早川にかかる「三枚橋(さんまいばし)」を渡ると箱根旧街道になる。ここから箱根関所跡をめざし約700mの急な登りになる。
急坂の両側に存在している奥湯本温泉街の側で初めて石畳道現れる。



最初に現れた石畳の道(江戸時代のものだと思われる)

いよいよ急坂がはじまる。坂にはそれぞれ名前がついている。「観音坂」「葛原坂」「女転し坂」「割石坂」「大沢坂」ようやく畑宿に着く。

「女転し坂」の道標
何とも恐ろしい名前がついている。ガイドブックには「オンナコロガシザカ」とフリ仮名が付いているが、道沿いの説明版には「オンナコロシサカ」となっている。 いずれにしても、あまりの急坂のために馬から女が転げ落ちたということからついた名のようである。

寄木細工で有名な「畑宿」は沢山の観光客でにぎわっている。「峠の茶屋」で昼食と休憩を取り次は「甘酒茶屋」に向かった。畑宿からは旧街道の急坂と自動車道を繰り返し上へ上へと登る。「猿滑坂」という「猿も滑るような」急な階段を登ると、ようやく甘酒茶屋に着く。ここも多くの観光客が溢れていた。

さらに石畳の道が続くが、現代の靴より「わらじ」のほうが歩きよいのではないかと思う。江戸時代の石畳は角が丸くなっていて靴では滑る滑る。

「箱根八里の歌碑」の先の最後の坂「権現坂」を下れば元箱根町だ。芦ノ湖畔を1.2舛凌並木を行くとゴールの「箱根関所跡」に着いた。



肉眼では芦ノ湖畔の向こうに富士山が見えました


今回のゴール 箱根関所跡 に着きました


(おまけ)
翌日は仙石原まで歩き、見事なススキを見てきました。そのあとは湯本までひたすら下りました。




(完)








旧中原街道を歩く

2014年7月19日-20日 曇り


街道終点の碑は、小学校の門の横にありました。
中原街道(なかはらかいどう)は、中世以前から続く古道で、徳川家康によって、江戸時代の東海道が整備されるまでは東海道の一部としても機能していた。東海道整備後は、江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)から平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿)をつなぐ脇街道とされる。中原街道の名称は、平塚の中原御殿から由来される。別称として、相州街道・お酢街道・江戸間道・小杉道・こやし街道などがある。(by Wikipedia)

1590年に徳川家康が江戸入りした際もこの街道を利用したと言われる「中原街道」の起点から終点までを一気に歩くことにした。この時期昼は、熱中症の危険があるのでスタートは、16:00です。

中原街道の起点は、虎ノ門ですが、やはり日本の道路の起点は日本橋です。日本橋から真っ直ぐに銀座を抜け新橋で右折して虎ノ門まで。

さて、いよいよ中原街道に入ります。地下鉄「虎ノ門」の出口にトラの像があると聞いてたが、見つからなかった。
東京タワーを左手に見て赤羽橋を過ぎると、何やら騒がしい。三田祭りで道路は人があふれている。祭りにまぎれゆっくり早めの夕食タイムとしたが、ここでゆっくりし過ぎたため予定がずいぶん狂ってしまった。



三田祭り すごい人出!賑わっています

祭り会場からすぐ右に入り、伊皿子交差点の少し先には、赤穂義士が切腹した場所である「大石良雄外16人忠烈の跡」がある。高輪プリンスホテルの手前を右折して国道1号と合流し五反田駅に向かう。
五反田駅からは、旧中原街道に入り丸子橋を目指す。


電柱の標識 もう暗くなりました。

戸越地蔵尊(旧中原街道供養塔群)戸越村などの民間信仰を伝えるもの

中原口から旧道に入る頃には、暗くなり平塚橋の交差点で中原街道に合流する。
昭和大病院前交差点から再び旧道に入る。旧道の方が自然な道なりに感じるが家が建ちこみ旧道のイメージはない。

再び中原街道に戻り、南千束を過ぎると右手に洗足池がみえる。呑川を渡る手前には、雪ヶ谷村の浄心ら6名が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てた供養塔があったはずだが見落とした。

環状8号の陸橋をくぐり、田園調布警察前を横断して、旧道は左斜め前に入って急坂を下って行く。しばらく行くと、切り通しのような所に特徴的な赤い歩道橋が見えてくる。ここが「福山雅治」の曲にうたわれて有名になった。「桜坂」というスポット。そのまま土手まで行き「丸子橋」を渡れば、川崎だ。



 有名な 桜坂

丸小橋 昭和10年に開通されるまでは「渡し」であった

丸小橋を渡ると、綱島街道は横浜にむかい左に、中原街道は右に行く。東横線のガードをくぐりしばらくすると立派な「長屋門」の家がある。これが、先祖が後北条氏の家臣で、江戸時代はこのあたりの名主の安藤家らしい。

道が、左折し右折するこれを「カギの道」と呼ばれているそうだ。この辺りが「小杉の宿駅」だった。
小杉十字路を横断すると、「泉沢寺」がある。この寺の夏の市は冬の世田谷の「ボロ市」と並んで良く知られていたという。


泉沢寺の標識

南武線武蔵中原駅のガードをくぐり、野川を目指す。旧道は、この辺りでアップダウンが急でキツイ!一休み。遠くに高層住宅群の明かりが見える。港北ニュータウンだったらしい。

やがて前方に第三京浜が見えてきて、トンネルを潜ると旧道は「道中坂下交差点」で右に入る。さらにその先の向坂信号でまた右へ入って行く。途中右手のの石垣の上に「のちめ不動尊」が鎮座する。

再び新道と合流すると右手に立派な家がある。これが「関家住宅」で、江戸時代には代々名主を勤めていたという家柄で、建物は東日本最古の民家として、国の重要文化財指定となっている。

港北ニュータウンを抜けて佐江戸に向かう。向原交差点を右折し「大塚原交差点」で左折する。この先がずーとゆるい登坂になって、東方原あたりが頂上となり、下り坂が始まる。これから先の街道は尾根と谷を通過しているらしく、アップダウンの道が続くこととなる。「山王前」で道は二股になっているが、旧道はそのまま直進して行く。

間もなく「佐江戸」の交差点を過ぎる。佐江戸は中原街道の宿駅になっていた所で、馬の継ぎ立てを行ったそうだ。 しばらく行って、「地蔵尊前」を右折し鶴見川を渡り、次は、都岡町を目指す。



落合橋

「宮の下交差点」を過ぎると、長坂という名にふさわしくなだらかな長〜い上り坂が続く。右側には「四季の森公園」という広い公園が広がっている。その先に「横浜ズーラシア」という動物園がある。ようやく下りになると、都岡に至る。

保土ヶ谷バイパスをくぐってからの旧道は左の階段を上がって行く。まだ真夜中でちょっと怖い。住宅街の外側を縫うように歩くと、「旧中原街道」の標識がある。やがて「西部病院入口」で県道45号線と合流する。

後は45号をひたすら真っ直ぐ厚木飛行場へと歩く。相鉄線を地下道でくぐり、境川を新道大橋で渡ると大和市になる。更に小田急の「桜ケ丘駅」を超えるとようやく、厚木飛行場に着く。代官1丁目の交差点で現在の中原街道は左の方に曲っているが、右折する方が旧道と思われる。(新道に導かれてしまった)。夜が明けてきた。



厚木飛行場
第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官マッカーサーが降り立ったことで知られる。

綾瀬大橋入口交差点で左折し早川に向かう。この先東海道新幹線を潜ると間もなく、用田になる。用田の辻を渡った右角には、道標と不動明王が乗った碑がある。


用田の道標

用田からは、真っ直ぐな道が続き大蔵のバス停を過ぎて、日産工機のフェンス沿いを歩き、道なりに左折して行く。 本来は、「右に寒川小学校を見ながら、 寒川町公民館前の信号をを越える。目の前の二股道を右に行き、送電線の鉄塔をを左に坂を下ると、中原街道の案内板が立っていて、この道が中原街道と確認することが出来る。」そうだが道に迷ってしまい寒川駅に出てしまった。寒川駅の前の41号を進み、相模川を神川橋で渡ると平塚になる。ゴールはもう一息!


除夜の鐘で有名な 寒川神社 の脇を通る


神川橋 橋の向こうが平塚

相模川を渡り、旧田村十字路(田村の辻)を左折するとゴールの中原御殿(中原宿)に向かいひたすら斜めに歩く。 広い県道61号線を横断すると、歩道上植込みに「中原上宿遺跡」の記念碑がある。中原御殿跡は中原小学校にあると聞いていたので小学校を目指すと、色々標識が現れた。

ようやく昼前に終点に着きました。









この中原街道は起伏が多くて昔の人々も大変だったろうと思います。現在も重要な幹線として使用されているため道筋には近代的家が多く建ち、旧道の様子も消えていきそうな感じがしました。



(完)










日光街道を行く(その7)

 2011年4月2日  曇り時々晴れ

今市宿〜鉢石宿東照12.55km) 

いよいよ今日で「日光街道を行く」の最終回です。
日光をじっくり楽しむ為に残しておいたコースを行きます。
東武鉄道の下今市駅から東照宮に向けて出発。

(今市宿)
今市宿は、例幣使街道と会津西街道の合流点である。
交通の要地として発展し、現在でも日光や鬼怒川への玄関口として賑わっている。
戊辰戦争で宿の全てが焼けてしまい、江戸時代の街並みは残っていない。

国道119号に出るとすぐに史蹟二宮尊徳翁之墓の立柱が目に入り右手奥に報徳二宮神社」がある。
この地で終焉を迎えた、二宮尊徳の墓がある報徳二宮神社
二宮尊徳とはどのような人物だったのか調べてみました。
通称は二宮金次郎。公人としては尊徳を使用。尊徳は一般には「そんとく」と読んでいるが、正式の読みは「たかのり」。
小田原で生まれた尊徳は、幼くして両親をなくし預けられた伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、災害で失った生家を20歳で再興させた。
その頃には身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという。 また体重は94kgあったと言われている。
尊徳は地域づくり、財政再建の専門家で、1822年(文政5年)には小田原城主の命令を受け、桜町三か村(物井・横田・東沼)を立て直し、また1853年(嘉永6年)には日光奉行手附拝命、日光神領の復興を命ぜられる等再建させた地は数多く、今で言う「優秀なプロジェクトリーダ」であった。
そしてこれらの体験をもとに天地人三才の徳に報いることを説く報徳思想を形成する。
これは道徳と経済の両立を説いた思想で「自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、この世のものすべてに感謝し、これに報いる行動をとることが大切で、それが社会と自分のためになる」というものです。つまり、朝早く起き、夜おそくまで働くこと、粗衣、粗食に耐えること、荒地の開墾を指導し、村民に報徳の教えを広めたのです。


国道に戻ると、その先には、尊徳が亡くなったときに、葬儀が行われた寺でもある室町時代中期の創建の「如来寺」がある。
また、この寺には、東照宮を造った第3代将軍家光が宿泊するための壮大な御殿が境内に建てられている。

会津西街道(国道121号)を越え、上今市駅の側には、右奥に家光が日光に向かう時、御小休になった寺「浄泉寺」そして左に「滝尾神社」がある。

如来寺
滝尾神社                  
滝尾神社は、日光二荒山神社の別宮で、女峰山の女神である田心姫命を祀る神社。
本殿は、御神体である女峰山を遥拝できるよう、背面に扉がついている珍しい形態です。
ここでは「運試しの鳥居」がよく知られています。鳥居の上部の穴に小石を投げて、穴を通った数で運を占います。

滝尾神社先の5差路で旧日光街道は左の119号線と分れ、右の杉並木に入る。ここは江戸時代から明治維新にかけて縁のある杉があり、現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている貴重な文化遺産です。
杉並木に入って10分程で、日光街道最後の一里塚「瀬川の一里塚」がある。杉並木の両側に流れる水は澄んでいてとても冷たい綺麗な水だ。

ここからの杉並木は貴重な文化遺産

更に10分程で「砲弾打込杉」がある。
縦の線のように見えるところが跡らしい

戊申役のとき、日光・会津への交通の要衝今市宿をめぐる官幕両軍の激しい攻防戦が展開された。官軍の放った砲弾が並木杉を貫き痕をとどめるもので、付近には砲弾打抜き・止まり杉がある。

並木太郎 
並木太郎は、並木の中で一番大きな杉で、周囲6.36m 樹高38mでその姿が美しく端正なことからこの名がついたという。

銀杏杉
銀杏杉は、根株部が巨大にひらき、あたかも巨大な銀杏の葉を逆さにした形をしているので銀杏杉と呼ばれている。 

ところどころ杉並木が切れほんの数メートル「普通地域」になったかと思うとまた「保護地域」になったりしながら杉並木は日光駅まで続く。

銀杏杉の少し先に「明治天皇七里お休み処」の碑が建っている。

明治9年 東北地方巡幸の折、中禅寺湖まで足を延ばし、行き帰りにお休みになり、
ここまで馬車に乗り、ここで馬に乗り換えたという。

その先の宝殿の交差点を直進して杉並木に入ると、間もなく小さな橋を渡るが、この橋は「筋違橋」といい有名らしい。日光街道と筋違いに流れる川に架かる橋なので、この名がついたそうで、橋の袂の小さなお堂には地蔵尊が祀られて、はしかになったときこの橋の下をくぐると治るといわれ、はしか地蔵とも言われているそうです

橋を渡ると国道は左に、杉並木は右に続く。

すぐに「異人石」といって椅子のような石がある。

ここでちょっと休憩です
明治の頃杉並木を愛した1人の外国人がいて、この石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日ここで並木を観賞していたので異人石と呼ぶようになった

相生町の交差点を右に行けばJR日光駅、少し先が東武日光駅だ。

何時ものように東武日光駅側にある蕎麦屋へ寄って、何時ものように「湯葉蕎麦」を食べた。おいしいですよ。

いよいよ最後の宿場「鉢石宿」です。

(鉢石宿)

鉢石(はついし)宿は、正保元年(1644)に宿に定められ、日光街道の最終駅となる。
日光山の門前町である。元々、766年に勝道上人により日光が開山されたときの輪王寺とともにできた日光山の門前町で、鉢石の地名の由来は、鉢の形をしていた石があったことにちなんでつけれたという。
その鉢石は、現在も史跡として保護されている。
これが鉢石です。
直径2mほどの石で、日光山開祖・勝道上人が托鉢の途中、大谷(だいや)川岸辺のこの石に座って日光山を仰いだと伝わる。日光開山以来、旅人の道標となった。

JR日光駅の少し手前に鉢石宿の木戸があったそうだが跡は分からない。ここからは、登り坂になり古い建物も見られるが、いまでは観光客用の新旧取り混ぜたモダンな商店街化している。

日光山を背にした鉢石宿
羊羹屋
ちょっと気になった古い建物                  

この辺りに本陣があったようだが、菓子屋を営んでいた入江本陣も高野本陣も跡が残っていない。

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日光街道を行く(その6−2)

2011年3月3日  曇り時々晴れ

(徳次郎宿)とくじらじゅく

徳次郎宿は宇都宮市の西北に位置し今市市に隣接している。
江戸から18番目の宿で、宇都宮側から下徳次郎宿、中徳次郎宿、上徳次郎宿の3つの宿から成っていて、人馬継立は各宿当番制で順番にやっていた。
ただ当初は上徳次郎宿だけだったのが、願いにより享保13年(1728)から仲徳次郎と下徳次郎にも宿場が置かれたという。

北上を続けると右手奥に、「徳次郎城跡があるとの標識があった。

 
正面のこんもりしたところに城跡があったらしい。
宇都宮城の北方の守りとして築城され、宇都宮22代城主国綱の家臣新田徳次郎の昌言の居城といわれており、慶長2年(1597)宇都宮家滅亡とともに廃城になった。

いつの間にか辺りの景色は、大谷石の建物で一杯になっていた。

門の屋根も大谷石
大谷石造りの家、塀、蔵
立派な窓付きの蔵

徳次郎の交差点で国道293号を渡り暫く歩くと、右手に「智賀都神社」の
大きな鳥居が目に入ってくる。近づくと2本の大きなケヤキがあっていずれも樹木医によって治療された跡があるこの木は、樹齢約700年で県指定天然記念物となっている。
智賀都神社と大けやき(治療の跡がみえる)

この神社は、歴史ある神社で、徳川将軍家から崇敬されていたそうで、
3年に1度、8月1日の日没とともに行われる祭りで披露される彫刻屋台がすばらしいらしい。是非見てみたい。

江戸時代から明治にかけて作られた彫刻屋台の写真
はっきり見えなくて残念!

いよいよ日光も近くなって来た。

日光連山が手に取るように見えてきた。
 
日光街道は徳次郎の変電所を過ぎると道は、大きく左にカーブする。
船生街道入口の近くに、江戸から30番目の「六本木・石那田の一里塚」の跡がある。

杉並木の中ではどれが一里塚か分からないと思っていたが、塚は一段高く分かりやすくなっていることに気付いた。
一里塚一里塚脇の石仏
現在の姿は修復整備されたもので、塚には樹木はなく、石の標柱が建っているのみ。
側の石仏は、馬頭観音でした。道の反対側には十九夜塔があった。

一里塚から600mほど歩くと、右側に「宮尊徳先生遺跡石那田堰」と書かれた白い標識がたっているので道を右に下ってみると田川に出る。そこで地元の人に聞いてみると、そこにある金次郎がそうだと言うが、なんとも寂しい扱いだ。
石那田堰の碑と金次郎像
嘉永5年(1852)二宮尊徳の指導・監督の下に、ここ石那田に堰を設け、上徳次郎南で日光街道を横切って、上、中、下徳次郎および西根、田中、門前の計6つの田を潤すとともに、 人々の飲み水も供給したそうだ。

日光街道に戻り「田川大橋」という名の小さな橋を渡ると左に、「石那田の八坂神社」がある。
石那田八坂神社
疫病除けの天王祭を毎年7月17日〜24日にかけて行い、そのとき繰り出す屋台は江戸時代から明治にかけて作られた彫刻屋台とのことである。智賀都神社で見たのと同彫刻屋台の写真があった。

日光街道の杉並木は、自動車が通り人は一段高くなった道をのんびりある

見える雪山は男体山です


杉並木をひたすら北上すると、体にいっぱい赤い布を巻きつけた地蔵が祀られている。
これが「うらない地蔵」または「お願い地蔵」といわれてる地蔵だ
 

この石仏に願をかけ、3個のまんじゅう形の石のいずれかを持ち上げて、軽く感じれば願いが叶うという。

そこで一番右の石を持ち上げてみた。一番軽いかは全部持ち上げないと判らないので試した。一番軽かった。願いは叶うと信じた。

また堂の中にあった高札には以下のようにも書かれていた。

享保15年(1730)八代将軍吉宗公の時代に疫病が流行り住民が苦しんだとき地域の人々により石佛が作られ、人の体の悪いところと仏の同じところに赤布を張りお願いすると不思議に治ったという。それからこの地蔵を「お願い地蔵」と呼ぶようになった。

現在もお願いする人が多いのだろう。地蔵は真っ赤になっている。

ゆったりした杉並木の側道を歩いているとところどころに出てくる石仏にほっとする。

119号は大きく左に曲がるが、旧日光街道は直進し鬱蒼とした杉並木に入る。ここに「杉並木寄進碑」が建っている。

 
松平正綱が寛永2年から20数年かけて杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑


この辺りの杉並木は車道となっているので車の往来が激しく大きな杉も根元から切られているものや、木自体が相当痛んでいるように見られるものが多いのは何か心が痛む。
杉並木
いろんなスギがあります

いよいよ大沢宿に入ります。

(大沢宿)

大沢宿は、元和3年(1617)日光東照宮が造営された後、江戸から19番目の宿場となった。
現在の大沢宿の町並みには、度重なる大火のため旧街道の面影を感じさせるものは、ほとんど無くなっている

杉並木が一旦終わり再度国道119号に合流すると右に「王子神社」がある。ここは源頼朝などを祀っている神社で、旧大沢宿の鎮守であった。境内には樹齢約200年、樹高35.5mの大いちょうがあり、今市市指定の天然記念物になっている。

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日光街道を行く(その6−1)

 2011年3月3日  曇り時々晴れ
雀の宮宿〜宇都宮宿〜徳次郎宿〜大沢宿〜今市宿38.2km) 
今日はJR雀の宮駅まで車で来て、今市まで行きJRで車のあるところまで帰ってくることにした。
(雀の宮宿)
雀宮宿は宇都宮市の入口に位置し、日光街道が開かれた時に新しく作られた宿場だといわれている。比較的小規模な宿場だったようだ。
雀の宮駅から日光街道に入るとすぐに立派な門構えと白壁の塀の家がある、これがこの宿の脇本陣だ。
脇本陣の芦屋家
本陣は碑のみでしたが、脇本陣の「芦屋家」は、風格のある門構えや、白壁黒板囲いの長い塀のあるお屋敷に往時の面影を残し、いまも健在の様です。
その先の右には、郷社「雀の宮神社」がある。
雀の宮神社とそのすぐ隣にある馬頭観音(高さ2mを超える石塔)
この雀の宮神社には、以下のような話が残っている。
長徳元年(995)藤原実方が陸奥守として赴任途中休憩したこの地で、後を追ってきた妻の綾女が病死してしまった。遺言で持ってた宝珠を埋め産土神として祀ったのが神社の始まりという。その後赴任地の陸奥で実方がなくなると、その霊魂が雀となってこの地に飛来したので綾女と実方を合祀し雀宮と称したということである。なお雀宮という地名はこの神社の名前に由来している
正徳3年(1713年)には中御門天皇から金文字で書かれた勅額『雀宮』が下賜され、これが社頭に掲げられていた為、将軍家始め諸大名の通行の際には、下乗して参拝したそうです。
もう少し行ったところに、日本橋から100キロの道路標識が立っている。
う〜ん100キロか!良く歩きました。
更に北上を続け、国道121号を横切り陸上自衛隊駐屯地を過ぎたとこに、バス停「寿鶴薬師堂」があり、その左にはひどく派手な同名(すずやくしどう)のお堂があった。
その先の鳥居の奥には、地味な「菅原神社」がひっそりとある。
寿鶴薬師堂  菅原神社
北上していると「一里塚」の信号がでてきたので、うろうろしたが江戸から26番目の「江曽島一里塚跡」は、みつからなかった。
途中大きなケヤキを見るとこれかなと、何枚か写真を撮ったが、後で調べてみたら、
東北線が通る辺りに一里塚があったのだが、取り壊され、現在は左右の塚ともなくなっている。
ということでいずれも没となった。
西原の交差点で国道4号と別れ国道119号を行くが、間もなく不動前の信号のところで左の道に行く。
この四差路に、「不動前の不動尊」があり、元々は奥州街道と旧奥州街道の分かれ目にあって、江戸方面から来る旅人にとっての宇都宮宿に入る目印だったそうだ。
今は、その横に新しげな道標が立っている。(これは新日光街道のために作られたようだ)
「正面東京に至る」「左裁判所前」「右奥州道及び日光街道」と刻まれている
間もなく、東武鉄道宇都宮線のガードがあるが、この下に宇都宮宿の木戸があったということで、宇都宮宿はここから始まる。
(宇都宮宿
宇都宮宿は、古くから日光街道一番の宿場町といわれ、将軍の日光参詣の宿泊地&日光街道と奥州街道の分岐点として栄えたそうです。
また宇都宮宿は宇都宮城の城下町であるとともに、宇都宮大明神(二荒山神社)の門前町であった。
東武宇都宮線のガード側に「蒲生君平勅旌碑」(がもうくんぺいちょくせいひ)がある。
蒲生君平について
明和5年(1768)宇都宮新石町(現・小幡1丁目)に生まれ、儒学者・尊王論者としてその名を知られた。15歳の時に鹿沼の鈴木石橋・麗澤塾に入塾、毎日鹿沼までの三里を往復したという。途中にある黒川の氾濫で橋が流されても着物・下駄を頭にくくりつけて川を渡り、そのままフンドシ一つの姿で鹿沼宿の町中を歩いて狂人と笑われるなど、既に子供の頃から「奇人」の素養があったようである。
宇都宮宿では、蒲生君平に関わる寺、史跡を多く目にしますが、彼は国学者の本居宣長の教えを受け、国防に関する書物なども著したそうだ。
ガードをくぐり暫く行くと左手に、ひときわ大きな木が遠くに見えるので、側に行こうとするが結構歩くのでとてつもなく大きいのかと期待がふくらむ。
日光街道から左に入るとそこに大きな木があった。これは「新町のケヤキ」で天然記念物になっていた。
根元の凄さは半端でない。
樹齢は推定800年、樹高43m、目通周囲 7.9m 根回り20mだそうだ。
日光街道に戻ろうとするときれいな屋根が前方に見えたので行ってみると、そこが「台陽寺」だった。山門を入って左側には子育て地蔵尊が並んでいる。
 
戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある台陽寺
この付近には多くの寺院が配され、宇都宮城下入口を固める防御線の役割も果たしていたという。
日光街道に戻り少し先の幼稚園の隣に「熱木不動尊堂」がある。
 熱木不動尊
初代下野国司宇都宮宗円が、康平2年(1,059)に戦勝祈願をして不動明王三体を造成し、その内の一体が安置されている。今では公民館になっているらしい。
先に進むと、左手に美しい「一向寺」がある。鎌倉時代に作られた鋳物の仏像である阿弥陀如来座像は、世の中の吉凶異変が起こる前兆として汗をかくと言い伝えられていて「汗かき阿弥陀」と呼ばれている。
五十里洪水や関東大震災の前日にも汗をかいたそうだ。日曜日には拝観できるそうだが残念!今日は木曜日だ、しっかり閉まっていた。
 一向寺 この中に「汗かき地蔵」がある。
そして、その先には珍しい茅葺の山門の「報恩寺」がある。境内には、宇都宮氏の墓碑と見られる古い五輪塔や、戊辰戦争で戦死した官軍の薩摩戦死者墓や長州大垣諸藩の「戦死烈士之墓」がある。
 報恩寺のとても美しい山門。
このあたりは、伊賀町といい「宇都宮城下の西端に位置した武家屋敷町で、江戸時代には、楡木、栃木へ通じる六道口を警備する役人の屋敷があった。と説明板があるので、見渡したが面影はみあたらなかった。
ひたすら北上すると、裁判所前に突き当たる。ここを右に曲がるとすぐに伝馬町の交差点がある。ここに奥州街道との追分という説明版がたっている。
ここまで奥州街道と日光街道は同じ道であった。ここで左に行くのが日光街道で、直進するのが奥州街道になる。
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日光街道を行く(その5−2)

2011年2月2日  晴れ

(小山宿)
小山宿は元和3年(1617)宿として成立し、「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道(日光道中)、壬生通り、結城道、佐野道、栃木道が交差する交通の要所であった。
また小山城の城下町でもあった。

小山といえば、「小山評定」が思い起こされます。
小山評定とは
1600年7月、会津の上杉景勝討伐に向かっていた家康が、石田三成挙兵の報を聞いて小山で開いた軍議。予定通り会津へ向かうか、三成征伐のため西に向かうか協議した末、西に行くことを決め、関ヶ原の戦いでの勝利につながり、その後徳川の時代をなす事になる。
簡単に言うと「言うことを聞かない上杉家を家康がこらしめてやる!と言って、大名達を引きつれて米沢に向かうも、ここ小山に来た時、石田三成が家康に牙をむいたので、どうしたもんやろ・・と、連れてきた諸将に問うた」ことを指します。つまり、この後、真田親子(昌幸・幸村)を除いて、全員で引き返して光成を討つために一転して西に向かい、そのまま関ヶ原の戦いへと繋がっていくのだ。
この会議には、徳川家康、山内一豊、黒田長政など12人の武将が参加した
小山評定の地は小山市役所の前庭に石碑が建てられている。

JR小山駅の周りには、寺社や色々史跡、碑など多くが現存している
 
明治天皇行在所跡碑の後ろある小山宿脇本陣の玄関で、唐破風の立派な風格のある門は、当時の格式の高さを偲ばせてくれる。

本陣跡は駐車場になって今は何も面影はない。

小山駅のすぐ側に「常光寺」がある。ここにある市指定文化財青銅製阿弥陀如来像の台座には、戊辰戦争時に大鳥圭介軍の流れ弾があったと伝えれれる痕があるそうだ。

小山付近の戦闘では旧幕府軍が何度か明治新政府軍を撃退したそうだが、結局最終的には戊辰戦争に負けた。

日光街道筋に戻ると、左に「元須賀神社」その先に徳川家光より九石の寺領を寄進されたといわれている興法寺」がある。
慶応4年4月16.17日に、旧幕府軍と新政府軍との先鋒隊が、この辺りで激突したそうで、興法寺にはそのつめ痕が残っている。
興法寺
2つの被弾の跡のある興法寺の地蔵

日光街道を北上すると、静林幼稚園の側に大きく立派なケヤキがある。
ここは「日枝神社」の参道口で、木についての説明板があった。
 
樹齢400年といわれる日枝神社のけやき
葉がついたころはさぞかし大きく立派だろうと想像できる。

日枝神社には、樹齢400年以上で樹高は30数mになるというケヤキが3本あり、またここのスギも樹齢300年以上という事で小山市で大切に保存されている。

喜沢交差点の三角地帯には、馬頭観音と道標を兼ねた供養塔があるが風化が激しく何が書いてあるかわからない。

交差点では、国道4号には行かないで、右の細い道にはいる。
間もなく一箇所だけ盛り土された場所があり、ここが日本橋から21里目の「喜沢一里塚」であろう。
 喜沢一里塚と思う

道は小山羽川郵便局の手前で国道4号に合流すると、間もなく新田宿に入る。

(新田宿)

新田宿は小山市羽川にあり、宿の町並みがわずか約400mしかない、日光街道で最も小さな宿場であった。それでも旅籠は11軒あったそうだ。
昔は左手の方日光山、赤城山、大平山など眺望が良いといわれていたが、現在は見ることはできない。

新田宿に、現存するのは本陣跡の青木家の門、羽川薬師堂と郷社橿原(かしはら)神社、石仏群くらいだ。
 新田宿本陣跡(青木家)
新田宿の中央に位置するこの建物は門だけ残っている

 羽川薬師堂
小さいお堂であるがそれなりの由来がある。
堂前には雨引観音と十九夜像の石像が安置されている 

橿原神社
古くは星宮神社と呼び、羽川付近の総鎮守であった。
神社の直ぐ背後を、JRの東北本線と新幹線が走っている、
明治39年に汽車の飛び火により本殿が焼け現在のものは、大正3年に再建されたとのこと。

神社の先にある銅市金属会社の脇に道標になっている石仏群がある。
これらの石仏は現在の道に対し背を向けている。道が変わったのであろう。
もうここが新田宿の北口にあたる。
馬頭観世音には「左おざく道」宝暦2年(1752年)の供養塔には「左おざく・こくふんじ」と刻まれている。おざくは現在の鹿沼市石裂(おざく)のことのようだ。

次は小金井宿に入ります

(小金井宿)

小金井宿は現在の国分寺町にあって、天保14年(1843)の記録では、宿の長さ南北へ約730mだったそうだ。奈良時代には下野国の国分寺がこの地に置かれ、現在の町名の由来ともなっている。また、ここは古くから開けた地で、古墳がこの周辺に多く見られることから、下野国の中心地として栄えたことがうかがわれる。

国道4号沿いに江戸から22番目の一里塚である「小金井の一里塚」の案内がある。塚の間の道は今は住宅が建っていて途切れてしまう。
小金井一里塚

江戸時代には東側に松、西側に杉が植えられていたと記されているが、現在は左右に榎が植えられている。旧道の両側に塚が残っているのは珍しく、国の史跡に指定されている。


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日光街道を行く(その5−1)

2011年2月2日  晴れ 

  古河宿〜野木宿〜間々田宿〜小山宿〜新田宿〜
             小金井宿〜石橋宿〜雀の宮宿(43.9km) 

古河駅に6時40分着、家を出るときは薄暗かったけど既に明るくなっていた。まず古河宿の続きから始めよう。

古河駅から県道261号に出て、本陣跡を横に見て日光方面に歩き始めると道路より一段高い鞘堂に、文化11年(1814)に建立されたという金比羅宮」がある。
その先の本町の交差点を左折した所には「神宮寺」がある。

金比羅宮
この金比羅宮の彫刻は下毛国後藤藤政秀師作で建立のころは四面金箔が施された壮観なものであったという。

神宮寺
大安3年開基の寺で、1455年古河公方の始まりとなった足利成氏とともに鎌倉からこの城に移って来た由緒ある寺である。その後元和6年(1620)にこの地に移されて神宮寺と改号し、元禄4年(1691)に類焼再建され、また大正7年(1918)に大修理して現在に至っている。この寺に安置されている室町時代の作である「十一面観世音菩薩」は茨城県の有形文化財に指定されている。

寺を出て旧日光道に戻ると、大きな常夜灯の日光道標が左手にある。
これは、旅人の往来などで賑わった古河宿において、日光街道と筑波道の分岐で、旅人が迷わないようにと建てられた道標であり、古河市の指定文化財である。もとは先ほど左折した交差点にあったという。

常夜燈の道しるべ
「左日光」「東筑波山」と刻まれている

次の十字路を左に行くと「よこまち柳どおり」である。
ここには昔遊郭があったところというが、今は表通りの派手な古河宿とは異なり、どこかほっとする町並みでゆっくり歩きたい。

よこみち柳通り
江戸時代は 「横山町通り」 と呼ばれ、古河宿の北玄関口として旅籠や茶店が並び大変賑わっていた。

600mほど北上すると、左には弘法大師を奉った「徳星寺」、そして美しい赤門の寺「本成寺」がある。
ここ辺りが、古河宿の終わりとのこと。

本成寺
門も奥の本堂も赤が綺麗です。

古河藩五代藩主土井利益の藩医を務め、明和9年(1772年)に解剖学の先駆となる「解屍編」を著した河口信任もここに眠っている。

国道4号に再び合流するところに、道標がある。
                                        
この辺りから右手に「筑波山」を見ながら国道4号をひたすら北上する。
筑波山が見える

間もなく左手に「野木神社」の長い参道の入口があり、その先に「野木宿の入り口」の小さな案内板がある。木戸があった跡だそうだ。

野木神社
参道入口
野木神社
1,600年前の仁徳天皇の時代に建てられ、
1.200年前の坂上田村麻呂の東征のとき現在地に移したといわれている。
現在の神殿は、文正2年
(1819年)古河藩主土井利厚により再建されたもの。
境内には、坂上田村麻呂が凱旋したときに、植えられたという公孫樹(大いちょう)が植えられている


(野木宿)
野木村は野木神社の周りに住居したのが始まりで、その後街道筋へ移動して野木宿として成立した。 天保14年(1843)の宿の規模は人口527人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅 籠2軒という、 小さな宿場町であった。 そのため通行量が増えるその負担に耐えられなくなり、宿人馬を助ける助 郷の23の村々が野木宿に割り当てられて、任を果たし ていたという。(案内板より)


木戸跡

宿場として残る住居らしい跡もなく、案内板で説明されて入るように、ちいさな地味な宿場だったのではないだろうか。

本陣は熊倉家が務めたらしいが、熊倉家は今も立派な建物であるが本陣を思わせるものではなかった。

更に先を行くと左手に野木神社の別当寺という「満願寺」がある。
満願寺の十九夜塔

その先の交差点に日本橋から17里目(約67km)の「野木の一里塚」の案内板のみがあるが、左に少し行くとなにやら”これが一里塚跡じゃなの”と思ったので写真にとってきた。


この先の左手に、大平山への道標があった。
野木宿の大平追分道標

「是より太平に至る」と記されている。大平山は北西方向になる。当時は、日光への裏街道として、この横道を行くと渡し場があり川を渡って大平山へ行ったそうだ。

更に進んでカーブ手前に、観音堂がある。
 観音堂

この観音堂は「日光道中絵図」にも描かれており、正観音を安置している。敷地内に「馬頭観音」の石仏もある。

野木宿は、本陣も当時の様子は伺いしれず、わずかに寺と道標、石仏のみの宿だった。

宿場と宿場の間は殆どなにもないので淡々と歩く。

(寄り道)
役場前の交差点の少し手前右の小高い所に古いお堂があり、気になって立ち寄ってみると愛宕神社だった、そのお堂の下にあるもうひとつの小さなお堂に人が集まっていたので何かな?とのぞくと「どうぞ、どうぞ、いいとこにきましたね。貴方は運がとてもいいですよ」と歓迎されてしまった。
実は今日は、数十年ぶりの観音様の開帳が行われるので皆で準備しているので、是非見て写真もとってくださいとのこと。堂の中に案内されたり、話を聞いたりちょっと先が気になったが、収穫もあった。用意されていた花はまるでバリ島で見掛けたのと同じように盛られていてびっくりした

愛宕神社 供え物の花

                    
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日光街道を行く(その4−2)

2011年2月2日  晴れ

(中田宿)
案内板によると、江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して今は河川敷となっている場所にあった。宿は堤防下から約530mほど続き、本陣、問屋、旅籠、茶店などが軒を並べていたが、殆どは農家と兼業であったという。宿場の業務は対岸の栗橋と交代であたる、いわゆる合宿の形態をとっていた。天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿は69軒となっている。


県道228号は、日光道で国道4号と併走している。この辺りには源頼朝縁の鶴ヶ峰八幡神社」そして静御前に縁の「光了寺」がある。

静御前は、この辺りで没したため沢山の資料がある。

(静御前伝説)
古河・栗橋の地には以下のような伝説が残されています。 ・・・吉野の山で義経一行と別れた静は,頼朝方の追手に捕らえられて鎌倉に送られた後,一旦は京都に帰ります。しかし義経を慕う思い絶ち難く,文治5(1189)年1月,奥州平泉へと向かう旅に出ました。

 同年5月,下河辺荘高野(埼玉県杉戸町)に着いた彼女は,栗橋関所(当時は五霞町元栗橋にありました)が厳重に警備されていることを知り,八甫(同鷲宮町)を経て,義経の叔父が住職を勤める高柳寺(同栗橋町)に一泊します。そしてさらに北を目指して下総国下辺見(古河市)にたどり着くのですが,ここで旅人から義経が既に殺されたことを聞かされます。

 これを聞いた静は奥州に行って義経を弔うか,それとも諦めて京都に戻るか,迷った末に京都に戻ろうと決めますが(一度は栃木県宇都宮市まで行ったという説もあります),愛する人の死に既に生きる望みを失っていた彼女は,慣れぬ旅の疲れから病に伏してしまいます。高柳寺で剃髪して尼となりますが,その数ヵ月後の同年9月15日,「九郎ぬし(義経様)」という言葉を最期に, 22歳の若さでこの世を去りました。

光了寺(古河市中田)

 栗橋にあった高柳寺は,度重なる洪水や利根川東遷に伴って対岸の古河市中田に移転し,名も「光了寺」と改めました。ここには静御前遺品の舞衣や手鏡,そして義経がかつて叔父の住職に託した鞍などが伝えられています(拝観は予約制)。特に有名なのは舞衣で,これは静が15歳のとき,京都神泉苑での雨乞いの舞で見事に雨を降らせたことから,後白河法皇から賜ったものと伝えられています。
 古河に移った今でも,光了寺の境内は静が最期の時を過ごした地に相応しい落ち着いた雰囲気を残しています。(茨城県 境土地改良事務所の資料より)
光了寺

この先にも庭の綺麗な円光寺本願寺と立派な寺が続く。
円光寺
本願寺

そのまま県道228号を淡々と北上する。道が左にカーブするころから、松の木の並木道に珍しいなと思っていると、松並木の由来の案内板があった。
この辺りは今も「茶屋新田」という地名となっている。
将軍徳川秀忠が日光参詣の折ここに仮設の茶屋を設けたのが、地名の由来だそうだ。

松原  
松並木が続く

江戸時代に、ここから古河の原町入り口まで一里余りを、「中田の松原」と呼んでいたのにちなみ、つい最近復元させたそうだ。
当時は、並木の松の間からは古河の天守閣が眺められ、また富士山も時には雲の上に姿を顕わし景色が大そう良かったそうだ。


更に北上し国道354号を渡ると、県道も221号になっていた。国道354号を渡ると左手に、県立古河第2高等学校あり其の校庭のひときわ高くなっている所に、「古河の一里塚」(16里目)が柵越にみえる。
 
県道281号を進み左手に浄善寺が見える頃から、いよいよ古河宿が始まるようだ。


(古河宿)
室町時代に関東圏で勢力を誇った古河公方の本拠地として栄え、江戸時代には老中も勤めた有力大名の土井氏が藩主であった。古河藩の城下町、日光街道古河宿の宿場町として栄えた。羽黒神社のあたりが宿の入り口で、両側に土塁が築かれ上に棚を組み番所が置かれていた。 日光方面の出口は国道4号線と合流する手前、本成寺入り口に木戸があり、ここまでが宿であった。徳川将軍が日光参詣の折宿泊や休憩に使った3城の一つ(他に岩槻、宇都宮)であった。
また南総里見八犬伝の舞台になったことなどでも知られている

県道281号から県道261号に入ると古河城も近く、華やかな宿場町を彷彿させる沢山の碑、址がある。
古河城お茶屋口跡
将軍の日光参詣の宿泊・休憩は、岩槻・古河・宇都宮の三城を原則としていた。
古河城お茶屋口は、古河藩主土井利勝が三代将軍家光の参詣の際もてなすための茶屋を置いたことにはじまるといわれている。
参勤交代や日光参詣で通行する格式の高い大名もここで迎え、相手も挨拶をしていくきまりでした。相手がそれ以下の場合は肴町の御馳走番所で挨拶を受けた。

高札場跡  
江戸時代、藩や幕府のおふれ書「高札」を立てた場所

本陣跡
昔諸大名が参勤交代や日光参詣等の途中、古河に泊まる時に宿とした建物があった所である。この辺りは、日光街道より古河城への入り口の地点で、城下町古河の重要な辻であり、旅人の往来のはげしい一番賑わった所である

古河城を控えて大商人も多く、栄えた町だったのであろう。
ぬた屋について
明治期にはいると古河は廃藩置県により古河県、印旛県、千葉県へと編入、最終的に茨城県へと編入さた(1875年)。明治18年(1885年)には、大宮−宇都宮間の鉄道が開通し、茨城県内初の駅が古河に置かれた。
明治30年に元祖製造元として創業して以来百余年間鮒甘露煮一筋に取り組み、脈々と古河の伝統的な食文化として現在に受け継がれている。
綿屋
ふとんや
肴町に残る蔵    

肴町の由来
街道に戻る途中に「肴町」と呼ばれる一角がある。昔の面影が残る雰囲気の良い路地である。肴町というのは職業名の町名で、川魚を扱う御用商人がいたことによります。
また、城内への食料品供給路でもあったことから「肴町」と呼ばれるようになったようです。


余談)古河は、現代でも時代を感じさせられる建物や看板があった。
小学校の門

今日は、古河駅から帰宅する事とした。

次回は再度古河の町並みをゆっくり見ることにする。



日光街道を行く(その4−1)

2011年2月2日  晴れ

杉戸宿
〜幸手宿〜栗橋宿〜中田宿〜古河宿(24.4km)

東武動物公園駅を10時に出発して、再度杉戸宿の様子をみてから、幸手、栗橋、中田と続く宿を歩く事にした。そして古河宿を今日の最後とする。

(杉戸宿)
杉戸宿は、徳川将軍が日光社参の際に利用した日光御成道との接点として、小さいながらも交通の要衝であった。
杉戸の名前は下高野に利根川の渡しがあり、杉の渡(すぎのと)ともいい、これが杉戸に変化したという。
杉戸宿の脇本陣跡であった伊勢屋
(現在は質屋として使われている)

杉戸宿の本陣は、門のみ残っているが、脇本陣は健在で当時の面影が偲ばれる。

その他、江戸を偲ばせる健在な建物も立派で、主要な宿場だったのではと思い起こされれのが杉戸宿の印象だ。
  
立派な建物が多く残って居る

明治天皇が幸手宿を訪れた際に、杉戸宿で5分間休憩したそうで、碑が建てられている。
明治9年奥羽御巡幸時の御休所跡
 
明治天皇は明治9年、14年の7月と10月、29年の10月と都合4回幸手宿を通られ、明治9年には本陣の知久家に、その後は右馬之助町の名主中村家に宿泊している。

また芭蕉も、杉戸宿に滞在し弟子と句会を開いていたようだ。
杉戸公園には、その句が刻まれた石が置かれている。
雨に先を阻まれたのか?

八十九間空に雨降る柳哉」

左手には、明治7年に作られた「杉戸学校」があったという「宝性院」という寺がある。明治9年には男子児童117人女子35人そして教員5人だったと説明されている。その寺には、道標を兼ねた大きな馬頭観音も残っている。
またこの寺は、奥の細道関東三十三か所霊場のひとつで、杉戸の七福神の毘沙門天でもある。
 

暫く東武線に沿って歩くと、[茨島一里塚跡]の説明があるが、今ではそれらしきものは何もみられない。

更にそのまま進むと、県道65号にぶつかり右折する。
右に「太子堂」、左に、門前に石柱がずらりと並んでいる神宮寺」がある。
神宮寺
 太子堂       

神宮寺は、源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師如来に祈って開基したと伝えられている寺である。この故事から鷹尾山誓願院神宮寺という

そのまま進み、東武線を跨ぎ幸手駅に近くなると幸手宿が始まる。

(幸手宿)
元和3年(1617)日光東照宮殿の竣工を期に幕府がその参拝道として整備した宿駅である。
江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となり、日光街道と日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町として繁栄した。
また利根川の付替え工事が行われ、権現堂川、江戸川を中心とした舟運が隆盛を迎 え、新田開発の進展もともなって、権現堂河岸、関宿向河岸は回船問屋などが立ち並び賑わった。

日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農業神を祭ったという言い伝えが残っており、「幸手」の市名はその薩手(さって)に由来すると伝えられている。

宿場らしい家並みがみられる。
 
昔は本陣、今はうなぎやの「知久屋」

本陣であったころは、屋敷は1000坪あったそうだ。現在は「義語屋」という割烹が建っている。明治三年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くした。

幸手宿の本陣であった「知久屋」は今はうなぎやになっていて本陣の様子は伺えないが、当時の知久屋は、本陣、問屋、名主を兼ね幸手で最も重要な役割を担っていたそうだ。
明治9年には、明治天皇の宿泊所にもなったとのこと。

更に先に行くと、立派な門を持つ聖福寺」がある。今は幼稚園になっていて入りにくいが写真を撮らせてもらった。
聖福寺
徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が十八回にわたり休憩した。
将軍の間、例幣使の間、菊の御紋の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎の作といわれる彫刻等も保存されている。

また「日光道中行程記安見絵図」が3枚(栗橋、幸手、杉戸・和戸)がガラス戸の中に張ってあった。江戸時代安政年間のものらしい。
日光道中行程記安見絵図の一部

道は聖福寺の先を右に曲がるが、角に「正福寺」があり、この寺には、馬頭観音供養と書かれた道標もある。そのすぐ隣には、天明3年(1783)に浅間山噴火に伴う一帯の飢饉に幸手宿の名主たちが施粥をしたという顕彰碑がたっていた。
義賑窮餓之碑 
積上げられた石仏群

正福寺
昔は末寺49寺を誇っていた大寺で、真言宗本山修行二十五年以上の僧侶でないと住職にはなれなかったといわれている。また、学問の道場としても有名で、数多くの学僧が、仏教・儒教・朱子学等が学んでいたと伝えられている。
 
この寺の入口の右手に、日本橋より13番目の幸手一里塚」の標識があった。塚らしきものは見られない。

そのまま権現堂に向ってすすむと、すすけた「熊野神社」がある。
そこには、権現堂の修復絵馬が奉納されているが痛みが激しいのが残念だ。このあたりは、江戸から大正にかけて、権現堂河岸の船着場として栄えて、船主、船頭、江戸商人からの奉納品が数多く保存されていたそうだ

権現堂堤修復絵馬は当時の土木技術を知る上で貴重な資料である。

治水作業に当たる人々の様子だ描かれている絵馬

いよいよ桜と菜の花で有名な、権現堂堤を気分良く歩いて国道4号に合流する。
御幸橋を渡り「外国府間(そとごうま)の道標」を確認する。

「左日光道、右つくば道、東かわつま前ばやし」と刻まれている

その少し先には、雷電神社がありここが、幸手宿と栗橋宿の中間。
江戸から14番目の一里塚「小右衛門(こうえもん)の一里塚」があったところになる。

国道4号を進み少し左にそれ126号をこえると、すぐに焙烙(ほうろく)地蔵がある。

焙烙地蔵(中に地蔵が安置されています)

ここには関所破りをしたり、企てた重罪人を火あぶりで処刑した場所だったそうで、土地の人は、このような多数の処刑人を哀れみ供養したそうだ。
焙烙というのは薄赤の低温で焼かれた土器の日用雑器のことで、お堂の中に名前を書いて奉納しているのが見られる。
  

いよいよ栗橋宿に入ります。

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日光街道を行く(その3)

2011年1月22日(土曜日)  快晴 

  越谷宿〜粕壁宿〜杉戸宿(20.4km) 

  今日のスタートは昼からになった。
(南越谷駅12:00)

(越谷宿)
越ヶ谷宿は埼玉県内の日光街道で最大の宿場町で、徳川家康は鷹狩でたびたび訪れた宿でもあり、休息所のあった場所は現在でも「御殿町」という地名で残っている。
越谷宿は1899年の大火で、町のほとんどを焼失して昔の面影は残っていない。
宿場は越谷本町から北越谷の旧道が東武線にぶつかるまでで、本陣跡は北越谷側にある
幕府の保護下に年貢米や商品輸送の大動脈だった越ヶ谷は、綾瀬川、古利根川、元荒川が流れ、武蔵野の雑木林が広がっていた。

南越谷駅から県道49号に出て、照蓮寺のある瓦曾根1丁目より旧日光街道は左手へと続く。 

の照蓮院は、天正10年(1582)年に武田氏滅亡の際に、勝頼の遺児で幼君千徳丸を秋山信藤が連れ、当地に潜居したが、間もなく千徳丸は早世し、それを悲しんだ信藤は照蓮院を建立してその菩提を弔った寺だという話が残されている。

このあたりから、古く由緒ありそうな建物がいくつか見えてくる。
しかし道標や史跡の類は殆ど見当たらない。

今でも旅館業を営んでいるのだろうか?
蔵を控えた立派な建造物「塗師屋」
小泉市右衛門宅。漆を扱っていた店で屋号を塗師屋。かつては呉服店だったが、 今は閉店している。先祖は漆を扱っていたということで、今でも「ぬし市」という屋号で通用するという。
こちらも時代を感じさせられるたてものです

越谷御殿跡について

旧日光街道から少し外れたところに「御殿町」というところがあります。ここの越谷御殿は、徳川家康放鷹時の宿場所として、慶長9年(1604)に設営されました。この地は越谷郷の土豪会田出羽の陣屋でしたが、家康の求めによりこの地を差し上げたといわれています。
 規模は現御殿町一帯のおよそ6町余歩で、家康、秀忠はしばしば鷹狩りに越谷を訪れています。のち、明暦3年(1657)の江戸大火による江戸城焼失には、この越谷御殿が将軍の居城として、江戸城二の丸に移されました。(越谷市HPより)


元荒川にかかる大沢橋を越えて越谷宿を後にする。

真直ぐ北上して北越谷の駅を越え元荒川沿いに行くと左手に、宮内庁の鴨のお狩場があるが門がきっちりと締められて様子は全く分からないのが残念だ。
宮内庁お狩場  宮内庁の埼玉鴨場
元荒川左岸のこの辺りは江戸時代から歴代将軍の鷹狩りの猟場でした。鴨の飛来が少なくなった東京の浜離宮の代替地として、明治41年に完成しました。毎年、皇族や外国大使、国賓などを招待して鴨猟が行われています。(越谷市HPより)
鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の賓客の接待の場として宮内庁が管理している。宮内庁が管理している鴨場は、この越谷にある埼玉鴨場と、千葉県市川市にある新浜鴨場の2ヶ所がある。
ここで捕獲された鴨は食べられることはなく学術研究のために標識を付けて放されている。
総面積は約11万6400平方メートル。

そのまま路なりにひたすら北上し、粕壁宿に向う。

ひたすら歩いているが、ところどころに昔の墓か分からないが気になる石仏が道路沿いにいくつか見られる。

せんげん台駅の手前から旧日光街道も、国道4号に合流する。

武里駅の手前には、「大枝香取神社」があり、この神社は、古くから日光街道沿いに鎮座して「五穀豊穣の神」として崇められていたそうだ。創建の年代は不明だが、文化11年(1814)の墨書銘がある棟札が残っているようだ。

大枝香取神社 
武里駅手前の大枝香取神社にあった祠等

ひたすら国道4号を北上し、やっと一宮の分岐に着く。

山門の右に伝芭蕉宿泊の地の石碑がたっている「東陽寺」がある。
ここから粕壁宿が始まる。
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