栃木 古賀志山 中尾根コース

2019年11月28日  曇り

 

(トラック)

 

(コース)

宇都宮森林公園〜中尾根取付き(一番岩)〜二番岩〜三番岩〜軍艦岩〜P496〜P559(道標32)〜広場〜北コース〜宇都宮森林公園

 

クライミングの師匠に、古賀志の中尾根コースを案内してもらった。

さすがクライミング要素いっぱいの楽しいコースでした。

 

スタートは、森林公園の先芝山橋の手前に車を止めて歩き始めました。

このあたりの紅葉がまるで絵のように美しく見とれてしまいました。

 

 

 

芝山橋の右岸は、崩壊が激しく通行止めになっていましたので左岸を行き細野ダムの堰堤の手前で渡渉して中尾根の取りつきに向かった。

堰堤を右に見て左斜面の踏み跡を少し上ると、一番岩がドンと構えている。

 

今日は、セットされているロープ、鎖は使用しないことを約束してフォローで登る。

一歩目が少し高いですが、左の岩も足掛かりにすれば問題なく登れます。

 

 

突如現れる一番岩                 師匠が登っていきます。

 

木でピッチを切ったので次の優しい登りは私がリード。

アルパイン気分です。

すぐに二番岩三番岩 と岩、岩が現れます。

 

二番岩は正面のスラブを登ることもあるそうですが、今日は右から登りました。

ここにもロープが張られており師匠はちょっとオカンムリの様子。

登れない人がロープや鎖で登って来たらかえって危険だ  もっともですね

 

二番岩

 

三番岩

 

ここを過ぎたら写真で見た印象的な岩がありました。軍艦岩です。

ここでは、いろんなところからボルダリング登りをして楽しみました。

この岩の上からは、遮るものがなく最高の景色を望むことができます。

 

 

 

 

軍艦岩

 

軍艦岩で遊んでから先は岩岩のアップダウンを繰り返す。

途中のP496  からは目指す P559が木々の間によく見えました。

 

P559が見えます

 

久々に大きな岩が前方を塞いでいる。

この岩を超えると主稜線に出るとの事でしたが今日はP559に向かうため右に方向を変えて、トラバースをする。

このトラバース道は落ち葉で踏み跡も見えないが師匠は問題ないように進む、と32の道標(P559)が現れた。

 

 

主稜線手前の岩(この岩も登ってみた。)

 

P559でゆっくりと昼食した。

紅葉もきれいだし、展望もいいしベンチのように丸太が置いてあり居心地がいい。

 

さてこれからは下山になります。

主稜線に出ると標識が立てられており古賀志山頂方面に進むと、左に先の大岩が見えてそこには31の道標があった。

岩を登り超えるとここに出てくるのだった。

 

 

主稜線の標識

 

31から少し歩いたが、あちこちで紅葉に見とれ、岩遊び過ぎて14時近かったので、古賀志山頂は踏まずに下山することにした。

沢伝えに北コースの広場(道標29)にむかった。この道も紅葉が素晴らしく暫し立ち止まりながら下山。

 

 

下山口                       広場の標識

 

 

気持ちのいい下山道

 

広場からは北コース(一般道)とはいえ所々台風の傷跡が残り歩きづらい所もあるが、地元の人によりかなり手入れされたそうです。

 

細野ダムの堰堤が見えて戻ってきました。

帰りは右岸の新し道を駐車した処まで戻りました。

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


西上州 しれいた山(ハイグレード・ハイキング)

2019年11月17日 晴れ

 

昨日のマムシ岳に続き今日も西上州のバリエーションルートに挑戦。

今日のしれいた山も打田0貉瓩痢帷岩魂」記載のルートをたどりました。

 

(トラック)

 

(コース)

大北野駐車場〜大北野下登山口P610m〜しれいた山西峰641m〜しれいた山分岐〜西牧南牧分水尾根550m地点〜大北野下登山口〜木橋〜大北野駐車場

 

大北野集落まで車で上がっていくと使用可能な整備された駐車場があった。

ここに車を置いて打田0貉瓩遼椶砲△大北野下登山口まで行くことにする。

登山口に向かう沢に入ると、道が荒れて車で入るのは無理であった。

上の駐車場に駐車してきて正解であった。

 

いきなり崩壊された道

大北野下登山口

(二股の中尾根にある墓地)

 

二股の沢は、右に行くが沢の崩壊と荒廃でこれ以上沢を進むのは困難と見極め、尾根伝いに登頂することに決めた。

本とは反対コースだがまずはP610mを目指すことにした。

尾根への取りつきが、かなり西より(右)になり過ぎたため、途中から東へと移動して本来の尾根に戻りP610mに向かうがここは急登であった。

 

 

沢道は崩壊が激しかった

これ以上進むのは無理

 

 

尾根に取りつくが西より過ぎで東に方向を変える

 

藪の急登

 

漸くP610mにつき一息入れて、痩せ尾根岩稜帯をしれいた山に向かう。

かなりの痩せかたなので慎重に行くと目の前に岩山が現れる。

これが東峰で、すぐ先の岩山がしれいた山西峰641mだった。

しれいた山から北西の木々の間に落沢岳が見える。

 

P610mからしれいた山に向かう尾根は痩岩稜帯が続く

 

しれいた山頂の木々の向こうは落沢岳です

 

西峰からの岩稜の下りも地図ではわからないが、痩せ岩稜でかなり厳しい。

コルに出て一息つくと、本に書かれていた看板跡の鉄枠があった。

ここからの急登は、打田氏が懸垂下降した箇所で登坂にはかなり辛いが、更にその先の岩は脆くて落石が多く危険なので、リーダーにロープを出してもらい慎重に上る。

 

登りきると標石「五七」のピークで狭いが平らな場所があり一寸休憩することができる。

展望も良い。

 

脆い岩を慎重に上る

 

 

標石「五七」のピークから、鹿岳、妙義山が望める

 

一休み後再び岩稜帯を行くと、しれいた山分岐に着いた。

左の尾根を登れば落沢岳だが、ここから下山することにして、西牧南牧分水尾根に降りる。

この降口は、厳しいので懸垂下降をして西牧南牧分水尾根へと降り立った。

 

この先は、スタート地点に戻る尾根を探す。

目的の尾根を見つけたが、そこには木にマーカーがされていた。

私たち以外にもこの尾根を使うのだと確信したが、この下りも快適な尾根までは厳しい下りが続く。

 

尾根を下り切ると最初にたどろうとした沢の崩壊地点に合流した。

 

 

下降点を示すマーク        厳しい下りを左の尾根頭に向かう

 

 

ここに戻ってきました。               木橋

 

後は大北野下登山口にもどり、木橋を渡るとぴったり大北野駐車場に着きました。

 

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 

 


西上州 マムシ岳(ハイグレード・ハイキング)

2019年11月16日 晴れ

 

昔所属していた仲間に誘われて何年かぶりのバリエーションハイクに行ってきました。

コースは、打田0貉瓩痢帷岩魂」記載のルートをたどりました。

 

(トラック)

(コース)

県道124→三枝→日向沢(キリンテ登山口)810m〜キリンテのコル〜210号鉄塔〜キリンテの頭1200m〜マムシ岳1307m〜マムシのコル1350m〜ゲンナイ登山口

 

 

高崎駅でレンタカーを入手して、三枝のしおじの湯までゆくと、此処にマムシ岳の案内板があった。

 

日向沢のキリンテ登山口まで車で入れるのは嬉しい。

早速、高度計を合わせ登山口にある細い木橋を渡り入山する。(S)

 

 

 

踏み跡があるのでそのまま進み尾根に取りつくとそこが、キリンテのコルです。

ここに「安曇幹線2号線205.206号に至る」の標柱があります。(本とは異なります)

 

ここから急登を行くと大きな210号鉄塔が現れ少し体温調整をする。

 

 

標柱 と 鉄塔

 

この先は素晴らしい紅葉をたのしみながら歩くことができる。。

 

 

 

 

 

この後は、大岩が現れ越えて行くと、かなりの急登になり残置ロープを使って上ると、本にある「ノ五三」の小さな石柱があった。

 

 

岩を超え又は巻き、残置ロープを使い急登をのぼります。

 

本にある「ノ五三」の石柱

 

さらに上るとようやくキリンテの頭(1200m)に到達する。此処からは少し穏やかな尾根歩きがありホットする。

 

 

 

岩壁を超えるといよいよマムシ岳(1307m)に到着です。此処には三等三角点があります。

 

 

                   南方を望む

 

この後は、松の木ピークを越えP1348を超え「上野楢原のシオジ」の看板のあるマムシのコル(1350m)に到着するまで藪の痩せ尾根の岩稜帯が続きます。

途中「よくきたな」の木札がありました。

 

 

藪の岩稜帯が続きます。

 

 

 

マムシのコルからゲンナイ登山口までは、本にも「遊歩道」と書かれているように快適な下山道です。

この時期は、落ち葉が深くガサガサ音をたてながら降りて来ました。

日向沢が見えたらゴールのゲンナイの登山口です。

 

 

落ち葉でふかふかな気持ちの良い下山道

 

 

日向沢を渡るとマムシ岳登山口(ゲンナイ登山口)の木札がかかっていた。(G)

 

 

 

車のあるキリンテ登山口まで県道124号を行くが、先日の台風で県道はかなりの崩壊していました。

 

ほんの一部です

 

(完)

 

 

 

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


栃木・鳴虫山

2019年9月1日(日曜日) 曇り

 

(コース)

東武日光駅(スタート)----登山口----分岐1----分岐2----神ノ主山(842m)----分岐3----鳴虫山(1103m)----合峰(1084m)----独標(925m)----分岐4----日光発電所(ゴール)----(1.5k)----やしおの湯---(バス)--東武日光駅

 

 

このところ朝晩は少し涼しくなってきた。

今年はなんだか雨が多いが、明日は大丈夫かなと昨日の内にハイキングの準備をして朝一番の電車で日光にむかった。

7:31に駅に到着。

 

駅前にある「日光の美味しい水」を頂きスタートする。

 

何やかやと準備して8:00少し前にスタートしたが、もう7、8年前に数回登っているので、覚えている道を行くが、目当ての消防署が無いキョロキョロとしていたのを若い女性が不審に思ったのか声をかけてきた。

「鳴虫山に行くのですか?だったらもっと先の信号を右折ですよ!」

言葉に従い行くがどうも違うと思いながら地図を眺めて方向をきめた。

見付けた登山口は、昔と違うがともかく登りはじめる。

 

 

ようやく見つけた登山口  と 細い登山道、この先道が崩れている

 

以前に比べると随分道が悪い、いかにも土砂が流れた後のように思われる。

暫らくすると分岐1に着いた。ここが昔上がってきた道だと気づいた。

 

分岐1 昔はここの道を上がってきた

 

この先は急登な尾根を登る。700mあたりの左にピークらしい地形が見えて来る。

もう神ノ主山かとおもったが、そんなはずはない。

 

この先の分岐2では、左の登山道は通行止めになっている。

 

700mあたりで左に見えるピークもどき

 

登山道は土砂が流れ落ちて木の根が露わになって上部を見上げても殆ど土が見えないほどの木の根登山道状態がずーっと鳴虫山の山頂まで続く。

今日のコースはアップダウンが多いが、最初のピーク神ノ主山(こうのすやま)に到着。

少し水を飲んで更に登る。

 

この先の892Pあたりで少し傾斜も緩み快適。

 

 

神ノ主山 山頂            892P

 

分岐3でも左の登山道は通行止めになっている。

アップダウンを繰り返し少しずつのぼって行くと、鳴虫山の山頂に到着。

ベンチもありユックリできるが、雨がパラリと来たので急いで下山することにした。

 

分岐3 木の根登山道が見えます。通行止めトラロープがかすかに見えています

 

鳴虫山の山頂からの直下はかなり急だ。

下りながらもアップダウンがある。

祠のある合峰(1084m)に到着。右の下山道も道が分かりにくい為通行注意(禁止)の札が置かれていた。

 

 

合峰

 

急で滑りやすい下りが続き独標(925m)に到着

方向を右に変えて更に急な登山道を下ると分岐4に達するが、道しるべに従い進むと日光発電所が現れてトンネルを潜った所で今日のゴールとした。

かなり汗をかいたので、含満淵には行かず、やしおの湯まで行くことにした。

 

 

独標                    分岐4の道しるべ

 

今日のゴール日光発電所先のトンネル

 

 

やしおの湯に行く途中には赤とんぼがいっぱいでした。

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 


岩舟山〜大明神山〜馬不入山

2019年7月10日(水曜日)  曇り

 

 

ここしばらく太陽を見てない、殆どの予定も”雨で中止”にうんざりしていたが、今日は雨が降らないらしい。

家事も終わってから、体力造りを兼ねたハイクに出かけた。

 

コースは、岩船山―大明神山ー大平 と企画

 

岩舟駅は両毛線だが、我が家からは東武線経由が便利なので静和(しずわ)駅から歩く(30分)

 

岩舟駅で登山口を探す。

 

両毛線の岩舟駅 と 登山口

 

登山口からすぐに長い長い600段の階段が続く。

高勝寺まで高度100mを階段で登る。

 

 

 

高勝寺 本堂

 

本堂の更に奥に岩船山の三角点(172m)がある。

太平山への標識に従い下山する。

 

途中東北大震災の時に崩落した岩舟山肌が荒々しい姿を見せる。

 

 

 

太平山側の岩舟山登山口から大明神山を目差し、岩舟総合運動公園に向かう。

運動公園から目指す大明神山が見える。低い里山だ。

 

公園を横断して、取り付きを探す。

 

取り付きは、藪でこの時期マダニが心配だがどんどん入って行くと、しっかりした踏み跡がある。

其のあとは、尾根を外さないように進めば山頂の三角点にたどり着く。

 

 

この公園を横切り、左の細い道に入ると右端に見える陸橋を渡れる。

 

 

登山口から藪だがこの辺りで少し落ち着く、ただイノシシがいつ出てもおかしくない。

この先は踏み跡がしっかりしている。

 

 

 

 

頂上からの展望を楽しんだら、しっかり地図を見て下山する。

下山も尾根を外さないように気を付ける。結構アップダウンを繰り返す。

 

途中自動車道を横断して対岸に渡ると、馬不入(うまいらず)山までひたすら登る。

 

ここでかなり疲れたので、作戦変更して桜峠から清水(せいすい)寺に降りることにした。

 

 

自動車道を渡る。            ようやく馬不入(うまいらず)山に到着

 

ここからは、一般道を歩く。

 

桜峠から下山すれば後はフラットな道を新大平下駅まで歩くのみ。

 

桜峠で休憩

 

 

駅につきました。

 

 

大明神山は、国土地理院図に破線も載っていません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 


53 旧東海道10(関から京三条大橋)-7 <大津宿(おおつしゅく)>

<大津宿(おおつしゅく)から京三条大橋へ>(9.8km)

 

(前) 旧東海道10 (関から京三条大橋)-6 <草津宿(くさつしゅく)>

            http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=195

 

大津宿は日本橋から53番目(最後)の宿場です

規模は、南北一里十九町(4キロ強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒があった。また近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、東海道五十三次の宿場の中でも最大の人口を有し、大変賑わっていた。

 

Tokaido53 Otsu.jpg

広重 大津

 

 

西方寺----滋賀県庁----札の辻十字路----大津宿本陣跡----蝉丸神社下社----逢坂の碑

 

 

 

平野神社を過ぎ小さな川「常世川」を渡ると、いよいよ53番目の宿大津宿に入ります。

小さな川を渡ると、左に西方寺がある。

 

西へほぼまっすぐ市街地の中を通って行くと、左に滋賀県庁が見える。

 

道は真っ直ぐ国道161号が通る大通りに向かうがこの道は、京都へ通じる道ということで、京街道とも呼び街道沿いの街を京町と名付けていたそうです

 

札の辻十字路に出るので、左に曲がり南下してさらに坂道を上っていく。

札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。
ここは、東海道と北国海道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国海道であった。

 

滋賀県庁

 

南下すると大津宿本陣跡の標識が置かれている。ここは「大塚嘉右衛門本陣」です。

 

坂を上って行くと、JR東海道本線(琵琶湖線)を横断する陸橋からレンガ作りのトンネルが見える。

その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流します。大津宿はここで終わります。

 

これは明治時代に造られた煉瓦製で、鉄道開通から100年以上が経つが今も現役で頑張っています。

 

少し行くと右側に、琵琶の名手蝉丸をまつる「蝉丸神社下社」の鳥居が線路の向こうに見えます。

蝉丸神社は音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていたといいます。天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」がありますが、蝉丸の生い立ちははっきりしませんが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようです。

 

 

いよいよ京都三条大橋に向けた最後の道中となります。大津から京都三条への道は峠を2つ越えます。その一つが大津と山科を隔てる逢坂山で、平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところでもあります。

 

京阪電気鉄道の踏切りを渡り、ここから逢坂山の上りになります。

逢坂(おうさか)の地名は「日本書紀」の神功皇后の将軍「武内宿禰」がこの地で忍熊王と出会った、という故事に由来しています。

 

そして右に逢坂の碑(おうさかのひ)と説明板が建っています。

 

線路の向こうにある「蝉丸神社下社」の鳥居

境内には蝉丸の歌 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌碑があります。

 

逢坂の碑(おうさかのひ)

この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られた。

 

 

 

蝉丸神社上社ー----逢坂山弘法大師堂ー----逢坂山関跡----大津算盤の始祖の石柱----髭茶屋の追分----車石----三井寺観音道

 

 

左に京阪電鉄京津線を見ながら逢坂山へ登っていくと道路の反対側に、朱色がとてもきれいな鳥居の蝉丸神社上社が見える。

 

左右に山が迫る逢坂越えのルートは右にカーブするが、その手前に逢坂山弘法大師堂もあり、隣には、逢坂常夜燈がある。そして頂上へと向かう。

 

国道1号の上を跨ぐ歩道橋をくぐると、前方に信号交差点が現れる。この信号交差点の辺りが逢坂山の頂です。この信号交差点を右側へ移動し、いったん国道1号線と分岐して、旧東海道へと進んでいく。

 

ここに、逢坂山関跡(おうさかやませきあと)がある。

 

蝉丸神社上社

琵琶の名手蝉丸をまつる蝉丸神社は、逢坂山の麓には旧東海道沿いに三ケ所ある。

 

逢坂山関跡

この関は、伊勢の鈴鹿関・美濃の不破関と並ぶ天下の三関のひとつであったが、平安後期から徐々に形骸化されその形を失って、いまだにどこに置かれていたか正確な位置は定かではありません。
隣の逢坂常夜燈は、寛政6年(1794年)建立。

 

京阪電気鉄道の線路を跨ぐ横断歩道橋を渡って再び国道1号へ合流する。

国道1号にそって歩くと民家の前に「大津算盤の始祖、片岡庄兵衛住宅跡」の石柱が置かれていた。片岡庄兵衛は慶長17年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始して、幕府御用達の算盤師になったそうです。

 

およそ700mぐらい進むと名神高速道路をくぐり、すぐに国道1号から分岐して左手に入っていく、この道筋の北側が滋賀県大津市追分町南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり県境を歩くことになる。

 

少し行くと三差路があり伏見道(髭茶屋)の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。

 

東海道53次は、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る東海道になる。

 

 

追分の賑わいの様子が描かれた絵

 

その先の右側の閑栖寺の門前に東海道 京三條 と刻まれた道標車石が置かれている。

この付近の街道は車道と人道とに分けていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道としていた。

 

車石とは、牛車(荷役)用の轍を石に刻み敷設したもの。大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資として利用されてきたが、この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所であった。 京都の心学者・脇坂義堂(わきさかぎどう)は、文化2年(1805)年に一万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べ牛車の通行に役立てた。これを車石・車道と呼んでいる。

 

旧道はいったん国道1号線によって分断されますが、これを渡ったとろでようやく逢坂を越えたことになります。

 

国道1号を渡った所に三井寺観音道と刻まれた大きな道標と常夜燈がたっている。

三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院です。三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分になります。

 

閑栖寺の前に車石が置かれている

 

 

 

 

山科地蔵徳林庵----明治天皇御遺蹟碑----五条別れ道標----大乗寺への案内----日ノ岡峠

 

 

右手にある京阪鉄道の四宮駅入口の信号交差点を渡ると、右側に二つの石柱を置いた山科地蔵徳林庵(やましなじぞうとくりんあん)があります。

 

間もなく山科駅前交差点を越えたビルの植え込みに明治天皇御遺蹟碑が置かれています。

 

さらに西に進むと五条別れ道標が置かれています。

 

山科地蔵徳林庵

旧東海道沿いに立つ寺院で、地蔵尊は小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅令により、京の都の主要街道六箇所に安置された地蔵のうちの1体である。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもある。

 

五条別れ道標

標の北面には「右ハ三條通」、東面には「左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道」、南面には「宝永四丁亥年十一月」、西面には「願主・・・ 」と刻まれています。ここから京都三条大橋までは約6卍の距離です

 

西へ進んで行くとこの先で三条通と合流します。三条通とあることから、この道筋を辿っていけば京都三条大橋へ到着するはずです。ただし、旧街道はこの三条通とお別れして、東海道中で最後の峠越えをするためJRのガードをくぐり左の道へと入っていきます。

その先は日の岡地区で、大乗寺への案内がある先の交差点を越えると、旧街道の道筋は上り坂に変わっていきます。
ここが東海道中で最後の峠「日ノ岡峠」です。

 

 

 

亀の水不動尊----大乗寺----蹴上駅----三条神宮道交叉点----坂本龍馬・お龍結婚式場跡----道標----京都三条大橋

 

 

坂を登った左側に亀水不動尊(かめのみずふどうそん))があります。

これは元文3年(1738)木食正禅養阿上人(もくじきしょうぜんようあ)が、峠の途中のこの場所に道路管理と休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の喉の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待したといいます。

 

大乗寺までがキツイ登り坂です。ここを過ぎると道筋は平坦になります。大乗寺からおよそ600m強ほど進むと下り坂となり、右手からくる県道(三条通り)に合流します。坂を下ると地下鉄の蹴上駅があります。

ここからは臨済宗最高位の古刹で、義仲信長も上京の際には必ず詣でたという南禅寺もすぐです。

東海道はそこを左へとカーブして、坂を下りきったあたりが粟田口です。

 

三条神宮道交叉点にさしかかると右手に平安神宮、左に知恩院の交通標識が現れます。このまま直進していきます。

 

亀の水不動尊

 

三条神宮道交叉点

 

その先の白川橋交差点の少し手前の左側に「坂本龍馬・お龍結婚式場跡」の石柱が置かれていた。

 

白川橋の脇には、東面に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と刻まれた道標が建っています

 

ここからゴールの三条大橋まではわずか500mです。鴨川手前の川端通りの信号を渡ると、ようやく旧東海道歩きのゴール三条大橋に到着です。日本橋からここまで126里余(約495キロ)を歩いてきました。これで旧東海道歩きは終了になりました。

 

 

この石柱が置かれているあたりには、以前は青蓮院の塔頭である金蔵寺が堂宇を構えていたといいます。そしてお龍の父である楢崎将作は金蔵寺に仕える医師だったことで、お龍の家族は身を寄せていたようです。そんな縁で龍馬とお龍はこの金蔵寺で祝言をあげたそうです。ちなみに祝言は元治元年(1864)のことです。

 

道標 是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち(知恩院、祇園、清水)

鴨川

 

 

ゴールの三条大橋です。

三条大橋は京都市にある三条通の橋で、鴨川にかかっている。

東海道と中山道の終点として、また東国への出発点として、その役割を果たしてきた。

現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で昭和25年(1950)に作られた。欄干には当時の擬宝珠(ぎぼし)が一部残っている。 橋の東側には江戸時代の勤皇思想家である高山彦九郎像が、西側には東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんの像がある。また、日本で最初の駅伝がここからスタートしたことにちなんだ碑が建っている。

 

Hiroshige55 kyoto.jpg

広重 三条大橋

 

(完歩万歳!!)

 

 

 

 

(完)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


52 旧東海道10(関から京三条大橋)-6 <草津宿(くさつしゅく)>

<草津宿(くさつしゅく)から大津宿へ>(14.0km)

 

草津宿は日本橋から52番目の宿場です

規模は、天保14年(1843)当時の宿内の長さは南北7町15間半(約792m)東西4町38間(約505m)で、家の数が586軒、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠は72軒でした。

この宿は平安時代からあり、東海道中山道との分岐点として、次第に交通の要衝として重要な位置を占めるようになった。

 

Tokaido52 Kusatsu.jpg 

広重 名物立場

 

 

(前) 51 旧東海道10(関から京三条大橋)-5 <石部宿(いしべしゅく)>

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草津追分の絵

  

道標----追分道標----草津宿本陣----草津政所跡----立木神社

 

 

今は涸れている草津川の北東側沿いに歩き、国道1号を越えて左に曲がって川を渡ると、宿入口となる道標がある。

この道標を右に500mほど行くと、今度は追分道標がある。これは、東海道と中仙道の追分になる。

トンネルができるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へと行けた。

 

中山道は、江戸五街道の一つで日本橋を起点として西の京都三条大橋までの135里(526.3キロ)です。ここ草津までは日本橋から129里(505.7キロ)あり、その間に67宿が置かれていました。またその間には中山道の難所と言われる木曽路が横たわり、木曽谷に沿って11宿が置かれていました。

 

道標

草津宿の江戸方の入口であった。草津川の堤上に建つ火袋付石造道標である。総高は約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816年)3月に建てられた。
竿には「右 金勝寺志がらき道」「左 東海道いせ道」とそれぞれの行き先を刻んでいる。

 

 

追分道標

常夜燈は文化13年(1816)建立で高さ4.5mの火袋付きで「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれていて、江戸時代の「草津追分」を示す道標を兼ねていました。江戸時代の中山道はここで東海道に合流していたので、ここから京三条大橋までは同じ道を歩くことになります。


中仙道へのトンネル  上に天井川の草津川があります。

 

追分道標からは中仙道と合流になります。この直ぐ先の右に、門柱に「草津宿本陣」と墨書きされた板が下げられている田中七左衛門が営んでいた草津宿本陣跡があります。この本陣には多数の有名人が宿泊していて忠臣蔵の浅野内匠頭長矩吉良上野介、新撰組の土方歳三藤堂平助など、シーボルト皇女和宮明治天皇など多士済々である。

 

その先の左手に「太田酒造」が店を構えていて、草津政所跡の説明板が置かれている。

太田道灌の末裔が江戸時代以来営む造り酒屋で、街道時代には草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれ草津宿の政治的中心を担っていた場所にありました。旧家の家柄で「道灌」という銘柄の酒樽が店の前に置かれています。 

 

 

草津本陣跡(田中本陣跡)

敷地はなんと1300坪もある広大なもので、建坪は468坪、部屋数は30余もあり、現存する本陣の中では最大級で国の指定史跡です。

敷地内には、かつての本陣の姿を髣髴とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、きわめて重要な文化遺産である。 

 

真っ直ぐ進み「立木神社前交差点」の先の小さな伯母川(志津川)にかかる赤い欄干の橋の奥に朱色の鳥居が立っています。

これは、立木神社(たちきじんじゃ)です。境内には延宝8年(1680)11月の草津宿最古の追分道標が置かれています。

また神社に鎮座するのは狛犬が普通ですが、この神社には獅子の狛犬が祀られていました。

草津宿の京側の入口は立木神社の先に黒門があったとされていますが、その跡は現在では確認できません。立木神社がある場所で草津宿は終わります。

 

立木神社の橋と鳥居

 

 

立木神社の獅子の狛犬

立木神社は、旧草津宿と旧矢倉村の氏神でした。創建は神景雲護景雲元年(767)と伝えられる古社で、その名前は常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来しています。

 

 

 

 

野路一里塚----教善寺----野路萩の玉川----弁天池

 

 

草津宿を後にして、ひたすら南下して国道1号を横断する。この角に野路一里塚の石柱が立っている。日本橋から119番目、京三条大橋からは6番目)の一里塚です。

すぐさき左側の教善寺の前を通り過ぎると、県道43号と交叉する。ここは地下道をくぐるとすぐ右手に野路萩の玉川の立て札がある。

 

野路の玉川は十禅寺川の伏流水が湧き水になり一面に咲く萩と共に近江の名水、名勝として有名だった場所です。

源俊朝が千載和歌集で「あさもこん 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり」と詠んだ他、多くの歌人が歌を詠んだことで知られています

 

野路一里塚跡

 

道が右に少しカーブして先に大きな池がある。これは弁天池という名前が付けられている。

この先は緩い登坂になる。坂を登りきると、信号交差点があり、その下を狼川(おおかみがわ)が流れています。

そこの小さな標識に瀬戸唐橋まで4.9kmと表示されていた。いよいよ大津も近くなってきた。

 

 

弁天池の弁天島

池の中に弁天島があり、江戸時代の大盗賊日本左衛門が隠れたとの伝説が残っているようです。

 

 

月輪寺----東海道立場跡----一里山一里塚跡----大江の千里

 

 

 

 

弁天池から南西へ歩いているといつの間にか大津市に入っていて、道はゆるい下り坂が続く。しばらく行くと月輪寺の敷地に「新田開発発祥の地」「明治天皇御東遷御駐軍」の石碑がある。

さらに100mも行かないところの左に東海道立場跡石柱がある。

 

月輪池を回るように進むと、一里山一丁目の交差点にさしかかる。これを右に行くとJR瀬田駅があります。

そして、この角に一里山一里塚跡(日本橋から120番目、京三条大橋からは5番目)が置かれています。

 

この側にある道標に「三条大橋まで5里余り、江戸日本橋まで120里余り」と書かれていた。

 

 

立派な一里山一里塚跡

 

大江4丁目の三叉路の手前に何やら聞いたことのある「大江の千里(ちりんさん)」の標識が置かれている。

 

大江千里は、平安時代前期の歌人で中古三十六歌仙の一人として、百人一首の歌人としても著名な人で、その奥方がこの地に住まいしていたと説明されていた。

 

道は西へ真っ直ぐ進み次の四つ角を鉤の手に左に曲がり、そのまま真っ直ぐに南下する。

 

 

 

浄光寺----大場の桜----檜山神社----正法寺----建部大社----瀬田の唐橋------京阪石山駅

 

 

浄光寺の手前で再び直角に右に曲がると、左の土手に大きなさくらの古木があり、そこに大場の桜の説明標識がおかれていた。

 

そして道は、旧国道1号線の広い道に合流する。合流地点で左に折れ高橋川に架かる赤い橋を渡ると、左手に檜山神社の鎮守の森がみえる。

 

その先の右手に凄い建物があった。これは、八景山 正法寺 で、屋久杉の巨木が建物の一部になっている。(ビックリ!)

 

商店街を進み、左の細い道へ入って行くがすぐに大きな通りに合流する。そしてこれを右折する。ここに建部大社の大きな鳥居がある。

 

この建部大社は、源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、源氏再興を祈願し、その後、宿願叶って建久元年(1190)の上洛の際に再びここを訪れ、幾多の神宝と神領を寄進し深く感謝したといいます。

 

 

 

大場の桜  樹齢200年の古木ですが毎年美しい花を咲かせているそうです。

 

高橋川周辺

 

正法寺 巨大な屋久杉とお堂が一体となっている。

 

建部神社(たてべじんじゃ)の一の鳥居

祭神は瀬田川の龍神と俵藤太秀郷。

 

真っ直ぐに行くと、間もなく瀬田川畔の唐橋東詰交差点に出る。交差点を渡った先には「常夜塔」と「句碑」が建っている。

その先が、瀬田の唐橋で琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋で、奈良時代からあったと伝えられています。

中の島の上には、この橋に関わる伝説の一つの「俵藤太百足(むかで)退治」の話がかかれていた。

 

「俵藤太秀郷(モデルは鎮守府将軍藤原秀郷)が唐橋を渡ろうとすると、大きな蛇が寝ていた。藤太は平気でそれをまたいたが、実はその蛇は瀬田の竜神が化けていたものであった。龍神は藤太の勇気に感心し、三上山に住む仇敵の百足退治を依頼する。藤太は百足の目を射抜き見事にしとめる」という話です。

 

橋を渡り、京阪石山坂本線の線路を越え鳥居川町の交差点を右折するとJR京阪石山駅に達する。

JRのガードをくぐり線路の反対側へと移動し、琵琶湖の西側に沿って北上する

 

 

 

 

 

この橋は、古代から東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝だったため、唐橋を制する者は天下を制すとまでいわれ、壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、その度に橋は破壊と再建を繰り返してきました。そして織田信長によって唐橋が架け替えられた時、中ノ島を挟んで大橋と小橋かける現在のような橋になったと言われています。

瀬田川は、琵琶湖から唯一流れる川で、京都府では宇治川、大阪府では淀川と名前を変えて大阪湾に注いでいます

 

 

 

膳所城勢多口総門跡----若宮八幡神社----光源寺----篠津神社----大養寺----膳所神社----膳所城跡----和田神社

 

 

 

琵琶湖の西側に沿って北上すると、民家の玄関前に、膳所城勢多口総門跡の石柱がある。つまり膳所城の北のはずれになる。そしてここは膳所藩と大津陣屋領との境にあたります。 

 

徳川家康は慶長7年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、大津を直轄地にして大津奉行が支配する大津陣屋を置きました。これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになります。

 

ここを左折して京阪鉄道の踏み切りを渡るとすぐ右側に若宮八幡神社がある。

 

若宮八幡神社は、壬申の乱(672年)があって3年後の白鳳4年(675年)、天武天皇が宇佐八幡の神託により造営した。 神社の社殿等が完成したのは白鳳8年(679年)で、九州の宇佐八幡宮の次に古い八幡宮であり、当初は粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となった。 表門は膳所城の犬走り門です。

 

膳所城勢多口総門跡の石柱

 

 

若宮八幡宮の神楽殿

 

若宮八幡を過ぎると道は鉤形になり、ほぼ直角に右に曲がり、再び京阪鉄道の瓦ヶ浜駅手前の踏切を渡る。

この辺りは神社や仏閣が多い。

左にある光源寺を過ぎると道はまた鉤型に左折する。すると篠津神社(しのつじんじゃ)がある。

 

篠津神社の祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。古くから産土神(うぶすながみ)として庶民の信仰を集めていた。 現在重要文化財に指定されている神社の表門は、膳所城北大手門をここに移築したものです。

 

真正面に見える京阪鉄道の「中ノ庄駅」の手前でまたまた道筋は鉤形となり右折してまっすぐ行く。

道の左側に長屋門を持つ大養寺が現れる。この長屋門は膳所藩の武家の屋敷門だったようです。

大養寺の長屋門

 

大養寺の直ぐ先の十字路を左に行くと、諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉北政所徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っているという膳所神社(ぜぜじんじゃ)がある。

 

交差点を右へ進むと琵琶湖を望む膳所城跡(ぜぜじょうあと)に至ります。

 

膳所城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、大津城を廃し、城造りの名手と言われた藤堂高虎に築かせた城。湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた。膳所の浮城と謂われた。 現在は完全に陸続きとなった本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣がわずかに残っているほか、門が模擬再建されている。城門は膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されている

 

旧東海道は先の十字路を直進します。間もなく左に石田三成が縛られていたという和田神社があります。

 

道は和田神社の先で左折するが、この辺りでようやく前方に琵琶湖を望むことができた。

 

和田神社

境内の公孫樹(いちょう)は、樹齢約600年、樹高約24メートル、目通り周囲約4.4メートルの巨木。関が原の合戦に敗れ捕らえられた石田三成を京へ護送する途中、休止の際に一時つないだといわれている。

 

ようやく琵琶湖がみえてきました。

 

 

響忍寺----石坐神社----桃源寺----膳所城北総門跡----義仲寺----平野神社

 

 

 

左折した道は、響忍寺の周りを回わりこむようなっていて、道なりに行くと左に石坐(いわい)神社がある。

 

この神社の祭神は、海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)・豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)など名だたる方々を祀っています。 本殿、及び木造天命開別命坐像、木造伊賀釆女宅子媛坐像、木造弘文天皇坐像、木造彦坐王坐像が国の重要文化財に指定されている。

 

 

響忍寺  道はこの寺を巻くように続いている

 

石坐神社社殿

 

石坐神社の先にある白壁のきれいな桃源寺を右に見て進むと道がクランクして角に膳所城北総門跡の石碑が置かれている。膳所城下町の北の出入口になる。。これは先にあった膳所城勢多口総門と対をなすもので、大津口総門ともいう。

 

さらに500m行くと左側に国指定史跡の義仲寺(ぎちゆうじ)がある。

 

寺の由来書によると「寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い「粟津」で討ち死しましたが、しばらくして側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲を供養したと伝えられています。

 

白壁の美しい桃源寺

 

膳所城北総門跡

 

義仲寺(ぎちゆうじ)

義仲寺の名は、源義仲(みなもとのよしなか)を葬った塚のあるところからきているが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したと伝えられている。 門を入ると左奥に、松尾芭蕉の墓と木曽義仲の供養塔が並んでいる。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に51歳で亡くなり、「骸は木曾塚に送るべし」の遺言により当寺に埋葬された。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は著名な句。 寺は、昭和42(1967)年11月に国指定の史跡となった。

 

進んでゆき京阪電気鉄道の踏切を越えると、右に石場駅が見える。その先に、古くから芸能の神として信仰を集めていた平野神社の石碑が建っている。

 

平野神社を過ぎると、いいいよ最後の宿場、大津宿に入ります。

 

平野神社の石碑

神社は坂の上にあり、街道からは見えないが、祭神は精大明神で蹴鞠の祖神といわれている。古くから芸能の神として信仰を集めてきた。江戸時代には、蹴鞠を家職とする公家の飛鳥井・難波両家も当社を信仰し、その神事に奉仕していた。毎年8月に境内で蹴鞠祭が催されているそうです。

 

 

 

(つづく)53 旧東海道10 (関から京三条大橋)-7 <大津宿(おおつしゅく)>

       http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=196

 

 

 

 

 


51 旧東海道10(関から京三条大橋)-5 <石部宿(いしべしゅく)>

<石部宿(いしべしゅく)から草津宿へ>(10.5km)

 

(前)50 旧東海道10(関から京三条大橋)-4 <水口宿(みなくちしゅく)>

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石部宿は、江戸から51番目、京都三条からは3番目の宿場町です。

規模は、宿内の距離1600m、家の数458軒、本陣2軒、脇本陣はなく、旅籠32軒です。

京都から36kmあり、京都を朝出発すると石部に夕方ころ到着することから「京立ち石部泊まり」と言われ、江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場であった

 

 

広重・石部の景 石部の宿場の景色ではなく、目川の立場の様子を描いています。

 

 

 

 

東見附跡----吉姫神社----高札場跡----三大寺本陣跡----小島本陣跡----石部一里塚----西の見附跡----西繩手の案内板

 

 

落合川を渡ると、「これより石部宿」の木標が立っている。そこから200m先が東見附跡(東木戸)です。

 

見附は、桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見はるところから、「見附」といった。石部宿には、東西二ヶ所にあり、見付の西側には、目見改場がそれぞれ設けられていた。

 

東見附跡の先の左に吉姫(よしひめ)神社の鳥居がある。境内には南北朝時代作の木造狛犬や万病に効能あらたかな宮前の湧き水があるそうです。

この辺りの街道沿いは、格子戸のある古い家が目立ち、宿場らしい風情が漂う街並みです。

 

 

 

これより石部宿

 

見附跡の説明版に置かれた広重の絵

 

吉姫神社の鳥居

 

石部中央交差点の手前右に高札場跡、交差点の先には問屋場跡石部城址の案内板が置かれている。

そのすぐ先の右手に「三大寺本陣跡」そして更に先の左側に「小島本陣跡」(石部本陣跡)の石柱と「明治天皇聖蹟碑」が置かれている。

 

小島本陣跡

慶安三年(1650)吉川代官所の跡地に建てられ、永応元年(1652)に本陣となった。敷地2845坪に間口45間、奥行31間、建坪775坪、部屋数が26室、玄関や門が付いた家で東海道の豪壮鮮麗な建てものとして有名であった。しかし老朽化により昭和43年に取り壊されて現在は、跡形も無くなったいる。幕末には14代将軍徳川家茂が上洛の際に宿泊した。最後の将軍・一橋慶喜も上洛の際、ここで小休止している。また、新撰組局長、近藤勇も江戸下向の際に宿泊しているとあり、明治天皇も御宿泊され、明治天皇聖跡碑が残っている。

 

道筋は右手に緩くカーブしながら、宿内の鉤の手にさしかかり、ここで街道は鋭角的に右に折れる。突き当りを左に曲がると、石部一里塚の案内板が立っている。日本橋から116番目(約456km)です。

石部一里塚跡から200mほど先の信号交差点を渡った右角に西の見附跡の説明板が立っていて、ここが石部宿の京側の入口である西の木戸になります。ここで石部宿は終わります。

 

石部宿を後にするとすぐに、西繩手の案内板がある。

 

縄手とは、立場から立場の道の事を言い、石部宿の西にあることから西繩手と呼ばれていた。江戸時代、ここは宿内に入る前に大名行列を整列した場所で長い松並木がありました。」と書かれていた。

 

 

 


長徳寺----福正寺(木造地蔵菩薩坐像)----和中散本舗----六地蔵一里塚跡

 

 

宮川に沿って西北へ行くとJR草津線に出会うので、さらに線路沿いに歩いて行くと、名神高速道路が前を横切っている。このガードをくぐると、地名は湖南市から栗東市(りっとうし)になる。伊勢落集落林集落を通り抜けると、右側に長徳寺があり、境内には石仏群が祀られている。

 

長徳寺 石にはめ込まれているのは、「上野夜雨(かみののやう)」の絵と歌です。

 

街道が左にカーブするところに「国宝地蔵尊」と刻まれた石碑と説明板が置かれている。


これはは福正寺にある96.5僂離劵離一本造りの木造地蔵菩薩坐像で、平安時代の作といわれ国の重要文化財に指定されています。六地蔵の地名の由来になった地蔵尊の一つのようです。

 

直ぐ先の左側に古めかしい立派な建物が見えてきた。これは街道時代に常備薬である和中散を製造、販売していた旧和中散本舗の豪商「大角弥右衛門家」であった。

和中散本舗(わちゅうさんほんぽ)

徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を飲んだところただちに直ったことから、 腹の中を和らげるという意味で名付けられた和中散は、腹痛の漢方薬で、道中薬として広く普及しました。

大角家は間宿の茶屋本陣で、大名や幕府要人の休憩に使われ、シーボルトも立ち寄ったそうで、国の指定重要文化財となっています。

 

旧街道と116号線が一旦合流してすぐ分岐する所に東海道一里塚跡の石碑が置かれている。これが日本橋から117番目(約459km)六地蔵一里塚跡です。

 

六地蔵一里塚跡

 

 

 

 

肩かけの松----行者堂----手原醤油----手原稲荷神社----すずめ茶屋跡----鈎陣所ゆかりの地----葉山川橋----善性寺----東海道 やせうま坂の道標----地蔵院----目川村の一里塚

 

 

この分岐の右の細い道に入って行くと、右手にある西厳寺という寺の前に1本の松の木が立っていた。これは肩かけの松と呼んばれているそうです。

肩かけの松  

旅人たちがこの松の木の下で荷物を担ぐ肩を変えたことにその名の由来があると伝わっています。

 

松の木から500m程先で、名神高速道路栗東ICへの接続道路の高架をくぐる。そこの右に小さなお堂が建っていた。これが行者堂です。

この先には、蔵付きの立派なお屋敷が残っている。「東海道手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」と書かれた屋敷が手原醤油製造の家だ。

 

またその直ぐ先の左側に赤い柵で囲まれている神社が手原稲荷神社で、江戸時代の「東海道名所記」に「左の方に稲荷の祠あり 老木ありて傘の如くあり 傘松の宮という。」と書かれていたそうです。

 

手原稲荷神社

 

細い街道を進むと三叉路になり、その角にすずめ茶屋跡の小さな石柱がある。ここを左に行くと上鈎池(かみまがりいけ)の脇に 九代将軍足利義尚公鈎陣所ゆかりの地の立派な石碑が置かれている。

 

すずめ茶屋跡の石柱

 

九代将軍足利義尚公 鈎陣所ゆかりの地の石碑

室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。近江守護職位 高頼は、社寺領等を領地とした。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年10月近江へ出陣、鈎に滞陣した。
滞陣2年目に病で延徳元年3月に、25歳の若さで当地で陣没した。
」と記されています。

 

 

先に見える葉山川に架かる葉山川橋を渡りまっすぐ行くと左側に「善性寺」がある。

ここは、シーボルトが立ち寄ったことで知られている。シーボルトはその時の印象を「江戸参府紀行」に「かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学せり」と綴っています。

この先はT字路になっていて、突き当りに「東海道 やせうま坂」と刻まれた道標が置かれている。

 

ここを右に行くとすぐに地蔵院がある。この寺は神仏混合の寺として今も残っています。

道なりに左にカーブすると東海道一里塚の石柱が立っているこれは、日本橋から118番目目川村の一里塚です。

 

目川村の一里塚

 

 

 

 

専光寺----目川立場元伊勢屋跡----乗円寺----老牛馬養生所跡

 

 

一里塚の200m程先の右側に専光寺があり、その先に目川立場元伊勢屋跡(めがわたてばもといせやあと)の案内板と田楽発祥の地碑」がおかれている。

これは、東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれ、ここで共された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で、独特の風味を有し東海道の名物となったそうです。

 

目川立場元伊勢屋跡

 

その先に乗円寺があり突き当りを右に行き、新幹線の下をくぐると、右側に「従是東膳ヽ領」と書かれた「領界碑」が置かれている。

そのすぐ先に「老牛馬養生所跡」 の碑が置かれている。

看板には「この施設は、和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打ちはぎすることはやめようと呼びかけ、天保12年4月に当地が、東海道、中山両街道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬が余生を静かに過させる養生所を設立し、県下の老牛馬を広く収」とある。(**打ちはぎとは、殴り殺して皮を剥ぐこと。)

 

この先草津川の土手に上がるといよいよ草津宿に入ります。

 

 

 

(つづく)52 旧東海道10(関から京三条大橋)-6 <草津宿(くさつしゅく)>

                   http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=195

 

 

 

 

 

 

 


50 旧東海道10 (関から京三条大橋)-4 <水口宿(みなくちしゅく)>

<水口宿(みなくちしゅく)から石部宿へ>(13.7km)

 

(前)49 旧東海道10(関から京三条大橋)−3 <土山宿(つちやましゅく)>

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水口宿は、50番目の宿場に指定されて発展した。特産品は、藤細工、煙管、かんぴょうなど。
宿場の歴史は古く、室町時代に伊勢参宮の宿村として設けられたのが初めと言われている。その後1585(天正13年)豊臣秀吉が家臣の中村一氏に水口岡山城を築城させたことにより、宿場としての町割が整備された。
天保14年(1843)当時の宿内の距離は東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒という規模でした。

 

Tokaido50 Minakuchi.jpg

広重 名物干瓢 女性らがユウガオの果実を細長く削って干瓢づくりに余念がない様子を描いています。

 

 

山川橋----東海道標 水口宿----東見付(東入口)跡----本陣跡----高札場跡----問屋場跡----忍者最中----水口石----百間長屋跡----五十鈴神社----林口の一里塚跡

 

 

国道307号を横断して山川に架かる山川橋を渡ると右側に小公園があり、東海道標 水口宿が立っている。
そこからほんの100m程に「冠木門」が置かれています。ここが水口宿の東見付(東入口)跡です。
ここから水口宿になります
東見付を過ぎると道筋はかなり狭くなり、その先の歩道橋のある交差点を渡り、右へ大きくカーブする。三叉路の左に本陣跡の案内板がたっている。次の三叉路には高札場跡があった。

 

冠木門 東見付(東入口)跡

 

案内には本陣は鵜飼伝左ヱ門が営んでいたこと、大きさは普通の家の三倍の大きさだったこと、そして明治2年に明治天皇が宿泊されたのを最後に本陣の役割を終え、その後撤去されたことが記されています。

 

高札場跡の三叉路は左へ行き、次の三叉路は右に行くと問屋場跡の標石がおかれている。その前に和菓子屋があり、「忍者最中」が売られていた。ここ水口は甲賀忍者の里です

本町通りをまっすぐ進むと、近江鉄道(略して「近鉄」)の踏切があり、左に水口石橋駅のホームが見える

 

宿内の光景

 

忍者最中 が売られている「御菓子処一味屋」

 

踏切を渡って200m行った信用金庫の前の丁字路を右に曲がり、さらに100m先で左に曲がり、心光寺の前を通り300m先で左に曲がり、また100m先のクリーニング店前の分岐を右に曲がる。城下町特有の鉤型の道です。

この最後の曲がり角に水口石がある。

その先に百間長屋跡の案内板がある。この辺りは水口城の城下町で下級武士が百間(180m)の棟割長屋に住んでいたとのことです。

 

水口石

東海道に面した小阪町に伝えられる大石で、「力石とも呼ばれ江戸時代の浮世絵師国芳が錦絵の題材にもしている」と石の前の説明書きにある。 

 

百間長屋 

 

突き当り丁字路の右に五十鈴神社があり、その角に少し土が盛られ林口の一里塚跡と書かれた標石があった。

ここを左に行くと、すぐに信号交差点に出る。この信号交差点あたりに東海道の西側入口の「西見付」があったと思われますが表示はありません。

 

そしてこの場所で水口宿は終わります。

 

林口の一里塚跡

日本橋から113番目(約444km)、京三条大橋からは12番目(約49km地点)の一里塚です。

 

 

水口宿西見附跡----美冨久酒造----米新楼----火の見櫓----東海道の案内標木ー----泉の一里塚跡----横田の渡しの跡

 

 

水口宿西見附跡を後にして石部宿へと向かう。

 

三叉路辺りに美冨久酒造がある。このあたりは江戸時代は北脇縄手と呼ばれていたそうです。

当時、伊勢大路とも呼ばれていた道は曲がりくねっていたのですが、江戸時代に東海道を整備する時に見通しが効くようにほぼ一直線の道筋にして、道の両脇の土手に松並木を植えました。この辺りから東海道十三渡しの一つで野洲川(横田川)の横田の渡しまでの約3.5キロの道筋は畑の中を貫く一本道のことです。

 

真っ直ぐな道を行くと右側に、米新楼という趣のある料亭がありました。調べてみましたがその状況は、分かりませんでした。

 

美冨久酒造  大正6年(1917)創業です。「山廃仕込」という酒造の伝統技法を受け継ぐ醸造元です

 

米新楼という趣のある料亭

 

真っ直ぐ進むと柏木公民館があり、その公民館前の広場にが一つ置かれています。その櫓には梯子が付けられ、丁髷姿の一人の男が梯子を登っています。櫓の上には半鐘らしきものが吊り下げられていた。火の見櫓かもしれません。

 

 

松並木が続く中を行くと三叉路の左手に橋が見えて来る。橋の手前に「東海道の案内標木」があるので、ここで左手に進み、泉川に架かる「舞込橋」渡ると、右側に「日吉神社御旅所」の石柱があり、その先に土が盛られた「泉の一里塚跡」が置かれています

 

東海道の案内標木 水口宿 横田渡 と書かれています。

 

泉の一里塚跡 (江戸より114番目)

 

その先で小さな川を渡り、少し左にカーブをすると冠木門と巨大な常夜燈が置かれている。常夜燈の向こう側には野洲川が流れ、街道時代には船による渡しが行われていた「横田の渡しの跡」です。

 

「横田の渡し」は「東海道十三渡し」のひとつで、常夜燈は文政五年(1822)に建立されている。常夜燈は万人講中のもので、普段は土橋、水かさが増した場合は舟渡しを行っていた。

 

 

横田渡跡の常夜燈

高さ10.5m、笠石は2.7m四方、囲いは7mの玉垣で築かれているもので、対岸からも、渡し舟の上からもこの常夜燈は大きく目立つ存在だったのでしょう

 

 

横田橋----微妙大師萬里小路藤房卿御墓所の石柱----東海道の木標----大沙トンネル----弘法杉----「夏見の里」の解説板----盛福寺----夏見一里塚跡----由良谷川トンネル----北島酒造

 

 

現在は、野洲川(横田川)を渡る渡しが無いので1劼曚媛捨の横田橋を渡ることになる。

このために国道1号に合流してから横田橋を渡ることになる。橋を渡りきると左に階段があるのでそこを下る。この正面がJR草津線の三雲駅です。

駅には行かずに右に曲がるが、この角に「微妙大師萬里小路藤房卿御墓所」、左側に「妙感寺従是二十二丁」と書かれた石柱が置かれていた。

道なりに進み、草津線の踏切を渡ると右側に東海道の木標が置かれている。

 

萬里小路藤房は鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱出に従ったが、 その後、出家し妙心寺の二代目住職になったという人物です。ここから南西22丁にある妙感寺は藤房が晩年に過ごしたところです。

 

 

旧街道を進んで行くと、大沙トンネルにさしかかります。なんとこのトンネルの上には川が流れています。川の名前は「大沙川」です。

 

大沙川は上流から運ばれた土砂が堆積して川底が上がり、川が家や田畑よりも高くなったところを川の氾濫を防ぐために土手を高く築き直した結果、川がこのように高いところを流れるようになったとの事です。このような川を天井川といい滋賀県東部に多く見られます。

 

トンネルを抜けると左側の囲いの中に「弘法大師錫杖跡」の碑が置かれてた。そして頭上の大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年の杉がある。この大杉は弘法杉、または二本杉と呼ばれているそうです。

一説によれば弘法大師(空海)が、この場所で昼食をとる際、杉の枝を折って箸の代わりとして使い、食後、2本の枝を土に突きたてた後、箸(木の枝〉が成長して二本の杉の大木になったと伝わっています。

 

大沙トンネル このトンネルの上に川が流れています。

 

左端に見える石柱が、「弘法大師錫杖跡」でその左上に「弘法杉」があります。

 

トンネルを抜けると、道の左手の小高い山の中腹に気になる巨大な岩が遠目でも見ることができます。

これは、「八丈岩」と言われています。八丈とは一丈は3.08mですから、およそ24mの高さの大岩です。

 

この山の中腹に戦国時代の城「三雲城」があったそうです。この城は長享2年(1488)に安土の観音寺城主であった佐々木六角高頼が逃げ込みのための本城として、三雲典膳に命じて築かせたものでしたが、元亀元年(1570)に信長の家臣の佐久間信盛の攻撃により、落城そして廃城となってしまいました。城跡に残された巨大な岩は「見張り台」として使われていたと言われ、その大きさから「八丈岩」と名付けられています。

 

 

三雲城概略図

 

300m程先の交差点の手前に「夏見の里」の解説板が立っている。

この辺りは、「立場」が置かれ、名物の心太(ところてん)や名酒桜川が茶碗酒として計り売りされている店が並んでいたそうです。

左にある盛福寺の前を過ぎて暫らくすると日本橋から115番目の一里塚である夏見一里塚跡の案内板が立っている。(案内板だけ)

一里塚の先に、またトンネルがあります。これも大沙トンネルと同じ、天井川の由良谷川トンネルです。

トンネルから750m程行くと左側に文化2年創業という老舗の「北島酒造」があります。北島酒造では店内に湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれているそうです。

 

北島酒造

 

 

家棟川隧道扁額----愍念寺、光林寺、養林寺----落合川

 

 

北島酒造の先には、家棟川(やのむねかわ)があり、そこに家棟川隧道扁額の説明板が立っていた。

それによると、かっては家棟川も天井川でこの下にトンネルが掘られていたそうです。

この先落合川まで街道から少し奥まったところにお寺が沢山ありました。右手に愍念寺、光林寺、養林寺、左手には八島寺などです。

 

この先の落合川を渡るといよいよ石部宿になります。

 

 

 

(つづく)51 旧東海道10(関から京三条大橋)-5 <石部宿(いしべしゅく)>

                    http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=194

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


49 旧東海道10 (関から京三条大橋)−3 <土山宿(つちやましゅく)>

<土山宿(つちやましゅく)から水口宿へ>(11.8km)

 

土山宿は、東海道の49番目の宿駅で、上方へ向かう旅人が、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場である。
東の田村川橋から西の松尾川(野州川)までの22町55間(約2.5km)の細長い宿であった。
当時は、小田原宿や三島宿と同様に賑わっていた。現在も本陣や旅籠の並ぶ町並みはきれいに整備されて残され、宿場町の面影を残している。

 

Hiroshige50 tsuchiyama.jpg
広重  春の雨
雨の中、笠を目深にかぶり、合羽を羽織った大名行列の一行が 背を丸めながら、増水した田村川の板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いています。

 

 

(前)48 旧東海道10(関から京三条大橋)-2 <坂下宿(さかのしたしゅく)>

     http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=190

 



海道橋(田村川橋)----田村神社----道の駅・あいの土山----東海道道標----地蔵堂----扇屋伝承文化館----土山一里塚跡----旅籠車屋跡----来見橋----白川神社----旅籠群----二階屋本陣跡----問屋場跡----土山宿本陣跡----土山宿大黒屋本陣跡碑----追分道標

 



田村川橋は、江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋であったが、今は復元されて海道橋となっている。

この橋を渡り、田村神社の境内に入ると右側に田村神社の二の鳥居常夜燈狛犬が並んで立っている。側には高札場跡の石柱もたっている。
ここを直角に曲がり国道1号にむかいます。歩道橋を渡り渡ると「道の駅・あいの土山」です。

チョット一休みします。



海道橋を渡ってすぐの鳥居


田村神社  国道1号に面して立っている鳥居
祭神は坂上田村麻呂。平安時代初期の建立。社殿は鈴鹿峠から移されたものである。 田村麻呂の、鈴鹿峠の鬼退治の伝説にまつわる「厄よけの神」としても有名。この鬼退治が2月18日だったことにちなみ、毎年2月17,18,19日に厄除祭が催されている。

旧東海道は、「道の駅・あいの土山」の建物の裏手に回り込むような道筋となり、東海道道標地蔵堂があります。
真っ直ぐ進むと、右側に商家然とした赤のれんの掛っている建物が見えてきた。扇や櫛を扱っていた「扇屋」です。現在は扇屋伝承文化館の名で土山を訪れる観光客のための休憩施設として利用されています

その先の民家の前に、日本橋から110番目の「土山一里塚跡」の標柱がある。 塚の規模はおよそ高さ2.5m、円周12mの大きさであった と伝えられています。



地蔵堂


扇屋伝承文化館
館内では地元の工芸品の展示や販売が行われているそうです。

「土山一里塚跡」を過ぎると、街道の左側に「旅籠 車屋跡」の石柱、そしてその先には立派な建物のお屋敷があった。

さらに進み小さな川に架かっている来見橋(くるみはし)を渡るとすぐ左に南土山の鎮守として崇められている白川神社の大きな鳥居がある。


この神社は、牛頭天王社又は祇園社とも呼ばれ、毎年7月の第3日曜日に「土山祇園祭花笠神事」が執り行われています。この神事は江戸時代の承応3年(1654)から続いているもので、南土山町14地区で奉納された花笠から花を奪い合う「花奪い行事」です



今でも残されているりっぱな屋敷


来見橋

白川神社から道は左にカーブして、道の両側に旅籠の石柱が沢山置かれています。柏屋大工屋釣瓶平野屋、向かいには井筒屋などがつづく。
中でも井筒屋は、森白仙終焉の地 と、石柱に彫られていた。

直ぐ先に二階屋本陣跡の石柱。またその先に問屋場、成道学校跡と同じ石柱に彫られていた。これは、明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。ということだそうです。

右手に立派な家が現れます。これは、土山宿本陣跡の建物でした。



森白仙終焉の地 井筒屋跡
森白仙は、文豪森鴎外の祖父で、文久元年(1861)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死しました。森家は岩見国津和野藩亀井家の典医として代々仕える家柄で、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師でした。


問屋場、成道学校跡の石柱


土山宿本陣跡
屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。


土山宿本陣跡からほんの150m程の所に、「土山宿大黒屋本陣跡碑」「土山宿問屋場跡碑」と少し離れた場所に「高札場跡碑」が置かれていた。
大黒屋は、旅籠屋として繁盛し土山本陣の補佐宿となった。規模は、土山宿本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であったようです。

これにより土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によると、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏(忍者?)と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたそうだ。

道はここで大きく右へと曲がってやがて国道1号にぶつかる。
国道を横断すると、道の左端に二基の道標が立っていた。「東海道」と「御代参街道(ごだいさんかいどう)」との追分です。

この道標の右に進む小路が旧御代参街道で、左斜めに進む道が旧東海道です。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還です。

江戸時代の東海道は御代参街道(ごだいさん)の道標の所で、進路を北西に変えて進み、野洲川を舟渡しで渡っていたのですが、現在は渡しも橋もありません。

そこで現在の土山宿はここまでになります


土山宿大黒屋本陣跡碑と土山宿問屋場跡碑


追分道標 小さな方の道標には「右 北国たか街道 ひの八まんみち 」と刻まれています。
北国たか街道(御代参街道)とは、ここから多賀大社へ行く近道で、またそれを経由し北国街道や中山道にも通じ、多賀大社にお参りする人々や近江商人などが往行した道の事を言っています。


歌声橋----滝樹神社入口----地安禅寺----垂水頓宮御殿跡----諏訪神社----長泉寺----大野市場一里塚跡----東海道反野畷----長園寺----旅籠丸屋跡----煉瓦作りの煙突の家----若王寺----旅籠東屋跡

 

 



国道を横断して、一旦北西の道に入るが、150m程で急カーブを国道1号へ戻りますが、このまま先に行くのが本来の旧東海道だった道です。

戻ってすぐ先を左の細い道に入り、道なりに歩くと車道の白川橋の南にある歌声橋野洲川を渡る。その先で右手からくる道と合流する地点にさしかかるが、この右からくる道筋がかつての東海道なのです

その先に「滝樹(たぎ)神社入口 従是四丁(約450m)」という表示が置かれている。其の200m先にも滝樹神社の鳥居があった。

さらに200m程いくと右側に地安禅寺(ちあんぜんじ)の楼門がある。



滝樹神社の鳥居


地安禅寺の楼門
地安寺には、御水尾法皇の御影御位牌が安置されています。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16才の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、34才で上皇になられた。


300m程先の左側の民家の一角に垂水頓宮御殿跡と書かれた石柱が立っていた。
またその先の左に諏訪神社があり、右側に延命地蔵尊が祀られている長泉寺がある。
さらに200mほど行くと道の右側の角に江戸から111番目の「一里塚跡」の石柱が立っていた。これは、大野市場一里塚跡(おおのいちばいちりつかあと)です。
その先の川は、大日川(堀切川)で、これを渡ると左に東海道反野畷の石柱があった。



垂水頓宮御殿跡
説明板には次のように書かれています。
伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。 土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。


大野市場一里塚跡
土山町内設置場所は山中地先、土山地先、大野市場地先であったが現在その跡はほとんど残っていない。塚の規模はおよそ高さ2.5m、円周12mの大きさであったと伝えられている。


東海道反野畷 大日川(堀切川)掘割碑
大日川は江戸時代には市場村と大野村の境をなす川でした。頓宮山を源流とした川は平坦部で流れが広がり、いったん大雨が降ると市場村と大野村の洪水被害が甚大だったといいます。大野村はその対策として、江戸時代の元禄12年(1699)に排水路を掘割し、野洲川に流すことを計画し、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し元禄16年(1703)に完成しました。

左に野洲川を見ながら歩くと、右に大野小学校があり、その先に民家の前に旅籠松坂屋の石柱があり、その隣に「長園寺」の石柱が立っている、その先にも旅籠丸屋跡の石柱が置かれていた。この辺りは、土山宿水口宿の中間にあたるので、間宿になっていたのでしょう。

この辺りで屋根の上に「煙り出し」(煙突))のある独特の建物が数件みられる。左側の煉瓦作りの煙突の家は造り酒屋で、右側の民家の脇に「明治天皇御聖蹟碑」がある。

この先は国道1号線を横断して、浄土宗若王寺の石柱前を右手に分岐する旧街道の細い道筋に入ると、旧徳原村の小さな集落が始まります。
集落を進んで行くと道筋の左側の藁葺屋根の家の前に旅籠 東屋跡の石柱が置かれていた。街道で藁葺屋根の家は初めて見たような気がします。



煉瓦作りの煙突の家


藁葺屋根の 旅籠 東屋跡

 

 

旅籠東屋跡----大野西の信号----東海道分間延絵図(今郷)----今在家一里塚跡----(浄土寺)----小里村の高札場跡----宝善寺----岩神社----永福寺---八幡神社

 

 

茅葺屋根の旅籠を後にして国道1号と合流する大野西の信号を横断して左側の県道に入り、稲川を渡ると甲賀市水口町今郷になる。

 

大野西交差点

 

直ぐに右の細い道に入り、緩やかな坂を上って行くと右手に「東海道分間延絵図」を張った説明板がある。現在の今郷の様子が書かれている。
坂が平坦になったころ浄土寺の手前に「今在家(いまざいけ)一里塚跡」の石柱が置かれていた。
本来の旧東海道は真っ直ぐに行くそうだが、浄土寺の山門前を通り旧東海道に戻った。合流点にある三叉路の角に小里村の高札場跡があった。

 

東海道分間延絵図(今郷)

 

今在家一里塚跡

日本橋から112番目(約440km)、京三条大橋からは13番目(約54km地点)の一里塚跡です。

 

三叉路を少し行き右手に分岐する狭い道筋に入って行くと今郷集落になる。宝善寺の前を通り過ぎ県道(旧1号)に再び合流する。そこにあるのが岩神社です。
そこからまたまた右の道に入って行く。しばらくすると街道から少し奥まったところに山門を構える「永福寺」にさしかかる。この辺りが旧新城村の中心だったようだ。

 

宝善寺

 

永福寺

阿弥陀如来を中心とする観音勢至地蔵の四尊を描く来迎図を寺宝に持っているそうで、この来迎図は昭和59年に水口町(現甲賀市)の文化財に指定されました。

 

永福寺の200m程先の右側に「八幡神社」の石柱があり、観音堂と絵馬についての説明板が立っている。
この神社の観音堂には、馬頭観音が祀られていて、この馬頭観音は元々は最澄が創建した「天水寺」の本尊だったそうです。


水口宿の旅籠や宿役人等が奉納したという2百余りの小絵馬も残っているそうです。

 

この先の山川橋を渡ると、次の宿場水口宿になります

 


 

(つづく)50 旧東海道10(関から京三条大橋)-4 <水口宿(みなくちしゅく)>

                    http://yamakazeoto.jugem.jp/?eid=193

 

 

 

 

 

 


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